140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

金枝篇(五)

2013-07-27 00:05:05 | フレイザー
「すなわちクリスマスは、太陽の誕生にかんする古代異教の祭りに取って代わらせるため教会が
制定したものであることが、古い時代の確実な証言によって明らかになっているのである」
ニーチェは命を懸けてキリスト教を攻撃したのだが、フレイザーはただ「パクリ」というだけだ。
これほどキリスト教に冷たい人もいないだろう。
しかし教会がパクッたクリスマスをさらにパクッて楽しんでいる私たち日本人というのは、
ちゃっかりしているのだと思う。

「・・・それゆえ、彼の殺される前にまず『金枝』を折りとることが必要とされた理由が
容易に理解されるのである。彼はカシワの樹の精霊であったから、その生命と死はカシワの
樹上の寄生木にあり、その寄生木が害をこうむらない限り、ボルダーと同じように彼は
死ぬことがなかったのである」

古代人は外魂を信じていたという。
それは「魂を永久的に身体の外の何物か―――動物、植物、その他―――の中に託することが
出来るという信仰」のことだという。
そして「アリキアの森林の祭司(森の王)」は『金枝』の生い繁る樹の擬人格」であることから
彼を殺す前にまず「魂が託された」寄生木を折りとらねばならなかったことになる。
そして寄生木が「金枝」と呼ばれたのは、「寄生木の枝を切って数ヶ月とって置いた時に生じる
見事な金色がかった黄色に由来するものであろう」とされている。

「高等な思惟への動きというものは、それを辿り得る限りにおいては、全体として、
呪術から宗教を通して科学へ向かっていると結論せざるを得ないようである」
最終章において著者はそんなことを書いているのだが実際には「科学」に満足していないようであり、
それは以下の記述から読み取ることが出来る。

「科学がさきにその先輩を排除したと同じく、次には科学自体があるいっそう完全な仮設によって、
おそらくはわれわれこの世代に生きる者が全くその正体をつかみ得ないところの、現象を見る
―――スクリーンに影を記録する―――ある全く異なった方法によって、排除されることに
なるかもしれないのである」

科学が心理現象を説明できないことについては度々触れてきた。
客観的な方法で主観的な現象を説明するのは、そもそも無理があるし、
私たちの思考が「言語」の限界を超えることは出来ない。(そもそも、その限界すら認識できない。)
「科学」が「言語」に縛られないと信じている科学者もいるのだろうが、
そう考えることが呪術のようなものだと思う。
未開人が呪術を信じ続けた期間を思惟が退けられていた暗黒時代と呼ぶのであれば、
科学という別の呪術を信仰し続ける時代もまた暗黒時代のような気がする。
私はその暗黒を突破したいと願っている。

「魂を身体の外の何物かの中に託することが出来る」と信じた未開人を嘲笑する資格が、
私たちにあるとは思えない。思考は脳の働きであるという。それが何だ?
「考える」ということが、どういうことか理解できないし、
「見る」ことが、どうして可能かすら知らない。
脳の特定部位に「私」があるなどという輩もいれば
肉体は朽ち果てるが魂は無限であるとか輪廻転生しているとか
まさに呪術のオンパレード・・・
そのような無秩序に秩序を与えたいと
願っている。