俳句日記/高橋正子

俳句雑誌「花冠」代表

9月10日(土)

2016-09-10 21:46:53 | 吟行

カープおめでとう!!
午後10時前に、25年ぶりにカープの優勝が決まる。カープファンではないが、私は、広島県人なので、こういう時は郷土の誇りと喜ぶ。カープはジャイアンツのように、カープスではありません。カープ(carp)は、単数複数同形。英語の時間にしつこく先生から言われましたから、今でも覚えています。広島にはお城があります。広島城ですが、これは鯉城と呼ばれます。そこからのカープです。もちろん市民球団です。ご存じでした?

10時前、墓地を見に鶴川まで信之先生と出かける。墓地を見るのは3度目。毎回同じだが、墓地までは直行バス。帰りは鶴川駅までタクシー。鶴川街道の風景をかなり覚えた。ずっと行けば多摩川にかかる稲城大橋に行きあたる。よみうりランドやゴルフ場も少し先にあるようだ。帰りは鶴川駅のドトールで軽食。私はグリーンレモンのハニーティとレタスドッグ。信之先生はアイスコーヒーとサンドイッチ。信之先生は食が進まないので、大方食べ残す。ドトールの前の持ち帰り寿司を二箱買って帰宅。往復4時間。

3時頃、日吉東急店の中にあるヘアサロンに行くが、19時半までは満員。で、止めて、天一書房で二玄社の『雁塔聖教序』を買って帰る。前々から欲しいと思っていたが、やっと手に入れた。『雁塔聖教序』と言われても、知らなかった。知る契機は、10年以上も前に、書道を少し習っていたとき、毎月の作品の審査で、「雁塔の書に似ている」とコメントされ、「雁塔の書」というのはなんだろうと思ったのが契機。今日、初めて手に入れた。見れば、王義之より自分にはなじみ易い感じがした。「弾力性豊かで、細太・強弱の変化が多く、清らかな風韻を奏でている。」と解説にある。「清らかな風韻を奏でている」は、詩的とうことだろうと思う。全くまぐれにして、恐れ多くも大変なコメントをいただいたものだ。

もう一冊買いたい本があった。是非、買いたい。
高階秀爾『日本人にとって美しさとは何か』(2015・筑摩書房・2052円)

今週の本棚 から引用。
三浦雅士・評 『日本人にとって美しさとは何か』=高階秀爾・著
毎日新聞2015年11月1日 東京朝刊
紙面掲載記事
考えるヒントに満ちたエッセイ集

 冒頭の一篇、「日本人の美意識」と副題された「言葉とイメージ」は、「うちの孫なんかがメールでいろいろ友達と話しているとき、最後に笑い顔か何かのいろんな絵文字をつけます」という話から始められている。怒りにしてもいろいろな怒りがあって、「うんと怒っているよ」とか「ちょっと怒っている」とか、何種類もあるというのだ。じつはこの絵文字のなかに日本人の美意識の秘密が隠されていると著者はいう。
意表を衝(つ)かれる。

 文字で絵を描く伝統は古い。鎌倉時代の《金字宝塔曼荼羅(こんじほうとうまんだら)》は建物を文字で描いた文字絵である。近くは、判じ絵になっている蕪村の手紙、あるいは平仮名で喜撰(きせん)法師の衣を描いた北斎の《六歌仙図》、さらに擬態語を図案化して取り込んだ現代の漫画まで、文字絵、絵文字の例は、日本の美術史、文学史のいたるところに潜む。

 ミシェル・フーコーはその著『これはパイプではない』において、マグリット以前、絵と文字はまったく別の世界のものだったと書いているが、「それはあくまでも西欧語圏での話であって、東洋においては通用しない」と著者は断言する。実際、仮名文字を発明し、「漢字仮名まじり文」を使いこなすようになった日本人は、その美意識において活字を意図的に長く受け入れなかったのである。

 「日本でも、江戸時代初期、活版印刷が知られていなかったわけではない。家康が鋳造させた活字は、駿河版と呼ばれる版本とともに今でも残っている。だが日本人は、西欧渡来のこの新技術を結局は受け入れなかった。浮世絵にしても、黄表紙その他の挿絵本にしても、いずれも木版である。それは何よりも、絵と文字の分離を嫌ったからであろう。絵と文字を一体として見るこの日本人の感性が、現代に至るまでなお生き続けていることは、棟方志功の最高傑作と言っていい吉井勇の歌による《流離抄板画柵》や、同じく谷崎潤一郎の歌を絵画化した《歌々板画柵》の例を思い出してみれば明らかであろう」

 古くは中国、新しくは西洋からの文物をほとんど無限に受け入れたかのように見える日本が、そのじつ巧みな取捨選択を行っていたこと、また、受容するにあたっても本質的な改変を加えていたことを著者は力説する。たとえば《聖徳太子及び二王子像》に描かれた二様の剣に見てとれるように、中国の直刀に「反り」を加えることによって日本化した。その原理は日本建築の特徴といっていい屋根の「反り」にまで貫徹している。宮大工独特の「撓(たわ)み尺」は西洋のカーヴとは根本的に違っているというのである。

 余白の美学が日本独特のものであることは、「余白」という言葉が英語やフランス語に訳しにくいところからも明らかだが、特筆すべきは彼我の違いが、最終的に「実体の美と状況の美」の違いに帰結するのではないかとする著者の指摘だろう。「日本人は、遠い昔から、何が美であるかということよりも、むしろどのような場合に美が生まれるかということにその感性を働かせて来た」というのだ。たとえば清少納言の「春は曙(あけぼの)」「秋は夕暮」。あるいは、広重の《名所江戸百景》が結局は春夏秋冬の四部に分類されてかえってその特色が強まったことなどを見よというのである。

 価値の多元化を標榜(ひょうぼう)するポストモダンがほとんど常識化して半世紀、逆に芸術のあらゆる領域において閉塞(へいそく)感が著しい。人間にとって美しさとは何か、いまや芸術の座標そのものが根本的に問い直されるべきではないか。問題の所在を示唆する貴重な一冊である。

○今日の俳句

竜胆をたっぷりと挿しよその墓  正子
竜胆を真青きまで活けよその墓  〃
夕顔の蕾残してガラス戸閉め   〃
 銀閣寺の花士 珠寳著の『一本草』を立ち読み
一本を活ける華道の蓮の花    正子
蓮の花ますぐに真向いて活ける  〃
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