俳句日記/高橋正子

俳句雑誌「花冠」代表

8月18日(日)

2024-08-18 19:34:53 | 日記
曇り、ときどき晴れ
朝の蝉ミニカーきのうと同じ向き  正子
十階の団地の裾は虫の野に     正子
団地の灯きらきら秋のはじまりに  正子

●朝夕は暑さが少し収まったので、ウォーキングを始める。しばらくは、1日5000歩ぐらいにして、楽に歩くつもりだ。近所のURや民間のマンションがある団地の中を歩いている。平たんで、風が心地よく、いろんな草木があって蚊がいない。人や交通も安全。ベンチがあって休めることなどがありがたい。

●「日々を生きぬくこと」(『ヘッセ 魂の手紙』第2章)は、一般には重いテーマが含まれている。手紙を「魂の」と形容しなければいけないというほどに。 

ヘッセの創作活動と、その創作活動と共にある2度の戦争との闘争と、三度の結婚生活が手紙からうかがえるものである。最初の妻との困難な結婚生活、二度目の妻、スイスの女流作家の娘で若いソプラノ歌手との別居の結婚生活、3度目の妻との死までの落ち着いた30年の生活と創作活動の関係は、ほぼ理解できる。

想像し難いのは、戦争との闘争である。私にとって、わかりやすい印象的な事例が二つあった。ケープタウンに住む読者からの1936年2月25日付のヘッセへの手紙の文脈である。ヘッセはヘレーネ・ヴェルティ宛ての手紙にその手紙を同封して知らせている。その文脈は、公開をためらうほど、強烈にヘッセを批判するものである。

また、もう一つは、トーマス・マンの長男の小説家で時事評論化のクラウス・マンへ宛てた、1938年7月21日の手紙で伝えていることである。1938年のヘッセは、妻のニノンがオーストリア出身のため、彼女の親戚や友人の運命や苦難がヘッセにも重くのしかかり、家にも亡命者をかくまっていた。ヘッセは第1次大戦中、強度の近視のため兵役にはつかず、フランスの捕虜収容所のドイツ人捕虜たちに本などを送る役目にあたっていた 。そのとき捕虜から叱られた話である。

「あのころの私(正子注:ヘッセ)は戦争捕虜に自分の編集したちっぽけな雑誌や読み物を、それに楽譜や楽器、大学生向けの教科書などを供給しました。かつて、捕虜収容所文庫として、フランスのある強制労働収容所への一箱に、ホフマンの小さな廉価版の『黄金の壺』を入れたことがあります。するとそれを受け取ったものからひどく叱られたのです。ドイツの捕虜や兵隊は、ひい爺さんの時代のそんな子供じみたロマンティックな代物など相手にするつもりはない。今日の問題や、半端でない今の生活と接点のある読み物、たどえば、ルードルフ・ヘルツォークの作品を求めている、」(『ヘッセ 魂の手紙』p.140)と。

これらたった二通の手紙からさえ、民衆は一度戦争の方向に向くと、幼いころの純真な心や正義や愛や落ち着きをすっかり失くすということである。

翻って、俳句も今は一つの方向を向いている。国家に近いところからの賞や、同調しやすい民衆や、時流にいる俳人の賞賛があって、一つの方向へどんどんと行っている。ほかにもある価値観を忘れているのではないだろうか。
この問題はこれでで終わりにする。

コメント
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