Sアンチを語る時にバリ活、ユル活、チョイ活という言葉があるけど、もっと言い当てればバリ信、ユル信、チョイ信というものがあったのではないかと思う。
活動ではなくて、そもそもの「信」である。
言われたことは何でも本気で真に受けた(真に受けようとした)バリ信。
ふうん、そんなもんかしらね~と聞いていたユル信。
モノによって、全く信じなかったり強く信じたりチョイスしていたチョイ信。
自分を考えても「活」だけでなくて、そもそもの「信」がこれだったと思う。
チョイ信ゆえ、チョイ活だったと思う。
例えば「脱会者は裏切り者の恩知らずだから責めなさい」という指導があったとしても、ではそれをチョイスしない選択はなかったかというと、いやありました。
「役職は断ってはいけない」とも言われてたけど、そういえば女子部の部長はあっさり断ったり。
「そんなのおかしい。私はそれはいいわ」と思えば、それはそれで通った。
私の記憶と体験では、Sは確かに中にはわけのわからない指導もあって、それをガンガンに言う人も真に受ける人もいたけど(それは事実)
でもそれを信じない、突っぱねたら通らなかったかというと、それがまたそうではなかった。(それも事実)
Sってそういう自由なところがあった。
でなかったら、私など長年いなかったと思う。
信と活はイコールか比例したものでは?と私は思うけど、これが例えばユル信、チョイ信だったけど心と裏腹にバリ活だったという人はいるのだろうか。
心と行動って(ある程度はあれど、極端には)解離しないと思うんだけどなあ?
これはアンチになっても変わらない気がする。
アンチの言い分なら、何でもかんでもアンチにいいようにいいようにとってしまうかというと、そうでもない。
チョイスする部分は「極アンチ」だけど、そうじゃないところは「それはない」
ここは変わらないなあと思う。