珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

コメントって

2020-03-16 | ちゃんねる攻防
以前「アクセスって」という記事を書いたけどhttps://blog.goo.ne.jp/kaishidosisters2018/e/aab3dea938484fe3e32c27f3dfefacdf
今回は「コメントって」を書こうかな。

一部の読者の中には、珈琲にコメントが来ないと何故か執拗に騒いでいる人がいるんだけど。
それアナタのブログでもないし、アナタが管理人でもないのになぜそんなことが気になるのか、まずもってそこが不思議なんだけどね。

世の中にはコメント欄を閉じてあるブログもあるし、ブログってコメントがないダメなの?

ちなみに私が贔屓にしているブログ三つは、コメントは読んだことも書いたこともない。
一つはコメント欄がそもそもなくて、もう一つは10年間で数個のコメントしかなくて、もう一つのはコメントはいっぱいあるんだけどブロガーさんが返信しない人なので、ブロガーしか興味がない私は一切読まない。
でも人気もあるし(多分)すごく面白い。
私だけじゃなくて、そこの読者は皆そんなものはどうでもいいと思っていると思う。

コメントにこだわる人はS界隈の読者独特ではないかとも思う。
この界隈は人とあーでもないこうでもないと論争したいとか、品評したいとか、共感したいとか、お声かけする慣習?があるというか、これが特化しているところがあるからね。
私も前ブログはそういう俺にも言わせろ的な、参加系の代表みたい感じだったから、記事よりコメントの方がはじけていたくらいだった。

ブロガーからしたら、コメントがあった方がいいとかない方がいいなんてのはブログによる。
書きたいのか人と絡みたいのかによる。
コメント欄をつけないのも、面倒だとかアンチが嫌だとか理由もいろいろである。
モチベーションもアクセスにある人、コメントのコミュニティにある人、お金にある人、布教のようなものにある人、好き勝手にやりたい人と様々である。
それはいろんなブログを幅広く読んだり書いたりすれば解ると思う。

こんなことくらいでも、知らないうちに自分の価値だけで測らざるべし。
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これでも正邪があるの?

2020-03-16 | S教団関係
宗教に邪宗も正宗もない。
祈る対象ではなく「疑わず、強く信じ切って祈ることで力になる」と、私は書いている。
なぜって信じて祈ることで(それができたらの話だけど)、迷いがなくなって確信が生まれるから。

最近はこれを広げて「体験発表に宗教をやってる人も宗教をやめた人もない」にしようかと思ってる。

人生に迷いと不安があって入信した人が、一つのものを信じることで迷いがなくなった。
絶対と思う確信を手に入れたら怖いものがなくなった。
忙しい活動は福運がついて有難いと感謝した。
同志から共感されることでモチベーションが上がった。
そんな腹の座った覚悟と、安定した情緒をもって物事に挑んだら、人も運も味方についた。
結果、物事がスムーズに運んでそれが「護られた」とか「功徳」と感じた。

S時代にたくさん見聞きした体験発表ってこのパターンだった。

同じようにSに迷って不信がある人が、「これは違う!!」と確信を持つことで、迷いがなくなった。
忙しい活動から解放されたと感謝した。
絶対に間違いだとそれが強固になるほどに、自信がついて心も安定する。
仲間からに共感によってモチベーションも上がった。
そんな安定したメンタルで人にもカリカリせず接したら人間関係も良好になって、物事が円満に進んでいく。
結果「ラッキーなことが起こるし、やめたらいいこと尽くめでーす」と目を輝かせる。

目をつむって両方を聞いていたら、どっちもが体験発表に聞こえる。
(ちなみにタイプの違う別人ではなく、同じ人が二つともをやった結果である)

迷いと不信が消えて確信がもてるなら、信じるものなら何でもいい、宗教じゃなくてもいい、
宗教をやめることですらいい

私が見る限りそうなるんだけど、これでもまだ教義論争する人たちっているのかなあ?
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