珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

響くのは

2020-03-14 | 思うこと
何年かアンチとシンパというものを見てきて(もちろん自分自身も含む)、つくづく面白いのが一つのことを二つに言うことである。
「一人の人間が」「一つのもの」を見て、シンパの時とアンチの時では言うことが真逆になること。

そんなの当たり前じゃんと言うかもしれないけど、絶賛も批判も同じものを見てるのが私には面白い。

例えばSアンチの重症の人になると「S会員と関わるとノイローゼになって吐き気がする」と大真面目にいう。
あたかもその人が、人をノイローゼにさせる特別な何かを持っているように。
でもシンパだった時はその吐き気がする人と「何十年も一緒にいて全然大丈夫」だったんですよね。
私もありますよ。
その辺のふつうのおばちゃんに「何か違う」という魅力を感じたり、「ゾッとする不気味な笑顔をする人」に見えたりとか。
人じゃなくても、昔も今もそのままに存在している本一冊、言葉の一つに対しても、感想文が七変化しているのは自分の方である。
相手は一字一句変わっていない。

相手は全く同じ。昔も今も1%も変わっていない。
変わったのは100%が自分である。

だけどたいていが「私の見方、感じ方が変わりました」とは言わないんですよね。
シンパの時は「相手のここが素晴らしい、素敵だから」
アンチになったら「相手のここがおかしい!!おかしいものをおかしいと言って何が悪い?!」
あくまで「相手のせい」にする。

「いえいえ、本当に相手が変わったんです。昔はよかったんだけど、ある時から豹変して態度が変わったんです。だから嫌いになりました」
というなら解ります。
或いは「今まで知らなかった面を知って減滅しました」とかね。
そういうこともあるよね。
でもそんな場合なら、今は大嫌いでも相手が豹変する前のことまでは否定しないと思うし、いいところはいいところとして全部は批判しないと思う。

全く同じものを見ているのに、嫌になったら過去まで全否定。
聞かされる方は「どっちやねん?」となりますよ。
そういう理由は「称賛」であれ「批判」であれ、頭を素通りする。
懸命に訴える「相手の話」は刺さらない。
でも「ああこの人の価値観が変わったんだな」ということは、痛いほど、しっかりと響くよ。
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こぼれ話

2020-03-14 | 日記
コロナ騒動の昨今、部屋のスペースがある企業はロッカールームなどを整理してそこで人員を分けて仕事をしているそうである。
同じ部署が一つのフロアにいると、全員が感染してしまう可能性があるからですって。
なるほど。いろいろ工夫があるんですね。
ちなみに撮影の現場は、人が多く集まるシーンは縮小したりCGを使っています。

夫が昨日、シンガポールは中止になったけど、別の映画で「蕎麦の美味しい某所」に打ち合わせと視察に行った。
飲食店はどこもガラガラの中で、それでも満員だった某有名店で蕎麦店で食べたら
「ワサビの香りからして違った」
「でも皆遠慮して、ふつうの盛り蕎麦で我慢した。本当は天ざるが食べたかった」
と言っていたので、これから天ぷらを揚げるゾ~( ̄∇ ̄)
蕎麦はスーパーで買ったものだけど、私揚げ物にはやや自信あり。

ところで映画を撮る時に地方で撮影すると、そこに観光や興行を見込むために協力的な行政の方がいて下さる。
都会はそれが上から目線だったりするけど、地方の方はいい人が多くてそれがモチベーションになったりすると言っていた。
嬉しいし有難いし、作品ってそんなところから始まっているんだと思う。

蛇足。
「めんたいこが美味しい某所」での撮影の話。
メインストリートで、エキストラを大勢呼び込んでの大パレードの撮影が雨天で中止になったら、お弁当代だけでその日は300万がふっ跳んでしまった。
映画ってそんな苦労の末に作られている。
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