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回遊魚の旅日記

時の流れる音をききながら歩いたり歌ったり
少しづつ昔の暮らしをとりもどしつつ。

四ツ木、青砥の川道

2012-06-23 22:14:43 | 山歩き・川歩き・遠足

今日は近場で昔の水路ウオッチング(すべて暗渠になり今は道になっている)

たどってみるといかに多くの用水、ドブ川が流れていたか、今更ながら驚く。

「ぶらタモリ」のように、一気にその当時のCGが出たらどんなにおもしろいだろう!

・ヨーカ堂の駐輪場前、水戸街道と並行する元曳舟川(今は水戸街道と並行する本田陸橋の下)に出る小さい水路だった道にある玉川橋の跡。

↓ 橋桁の名残は片側だけ。

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↓ 輪場の前の道が水路だった。この先が平和橋を渡って立石方面、本田警察署(現在・葛飾警察署)だから立石方面から流れていたのかも。

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↓ 東四ツ木。木根川から白髭神社への参道と思える道の向かい。

昭和39年ごろまではこの家の前も用水があり、小学生の悪ガキがよく落ちた。ここは以前は小さい鉄工所。キューポラみたいな四角い煙突がいまもある。この近くには今戸焼の窯元もあった。今は普通の住宅。(☆)

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↓ 木根川薬師の正門。

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この薬師の前も用水が流れていた。一説によると、その水路は旧中川の蛇行が三日月湖のように途切れ水路となり、さらに埋められたとのこと。 道の曲がりで元は水路とはっきりわかる。

曲がり道は、たとえば直角に近く曲がっていれば城下町では「かねんて」(曲手)、低地で緩やかなカーブならだいたいが川道、道幅4メートルくらいで緩やかなカーブで周りが家々の並びなら昔の街道と、わたしは見ている。

この道と並行して立石方面から渋江小学校前を通り四ツ木コミュ二ティ通りというのがある。(☆)の用水と交差する。そこも荒川から入る水路,新堀川であった。やはり昭和39年ころまでは確かにあった。渋江は古い地名で江戸時代の古地図にも「渋江村」の字が読める。コミュ二ティ通りに変身した元用水路、新堀川の脇には鳥肉屋があり、その店では川端でいつも鶏の首を落とし、その血が水の流れに滴り落ちていたのが強く印象に残っている。

昭和30年後半から40年代の町村名称変更で渋江も木根川も東四ツ木にひとくくりされてしまい、昔の地名はわずかに小中学校にとどまる。

↓ 木根川薬師前の道(元は川)。荒川にぶつかる。

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ちなみに今の四ツ木駅ができる前には、今の改札口があるあたりはアーチ状の水路(☆の水路につながる)のトンネルになっていて、荒川を隔てて葛飾に流れる中居掘(今の四ツ木マイロード)に合流する水路だったと思う。

少し離れて青砥の高架の下。

青砥駅は昭和30年後半まで地面の上にホームがあった。まわりは畑でキャベツなどが植えられていたのをホームから眺めたものだ。小学生時代、ピアノのレッスンの先生のお宅が高砂にあり、よく青砥で乗り換えて通ったので記憶に鮮明に残っている。

↓ 葛飾シンフォニーヒルズからの道と線路沿いの道、そして水道道が交わるあたり

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↓ 青砥高架下ツタヤの手前あたり。右側の高架は昔は地面を走る線路でこの道はもちろん川であった。ここの小川がきれいに流れていたのを憶えている。中川か曳舟川に合流していたのかどうか?

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ここ葛飾は湿地と用水の街であった。

歴史をたどって水の道を挙げて行けばきりがないけれど、だんだん憶えている人も少なくなってくるので少しづつ記録をしておかなければ、と思う。


2 コメント

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今戸焼の窯元は今はなくなってしまってるのですか? (み~こ・びあんか)
2012-06-24 17:22:57
10年位前にお茶の東京大会があった時の記念品が、今戸焼の都鳥の香合でした。
東京で唯一焼いているとこだと、そのとき聞いたのですが・・・。
今はなくなってるとは知りませんでした。
春先に都鳥の香合を使うたびに、東京の窯元なんて珍しいなと思ってたのですが。
残念です。[E:weep]
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み~こちゃん (やまびこ)
2012-06-24 22:16:48
今戸焼は本来は浅草から少し上流の今戸町で焼かれていたものでした。
たぶん、まだ少しは焼いている窯元もあると思います。
今戸神社もおもしろいですよ。大きな招き猫が本堂の両脇に座ってます^^。
たぶん四ツ木の今戸焼屋さんは、震災か戦災の時にこちらに引越して窯を作ったのだと思います

今日、「いざ事問わん都鳥」の区が実際に詠まれたと言う古隅田川の流れの跡をたどってきました。
川をたどると歴史も現在も未来も見えてくるようで、息苦しいほどおもしろいです。
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