回遊魚の旅日記

時の流れる音をききながら歩いたり歌ったり
少しづつ昔の暮らしをとりもどしつつ。

言うまいと思えど・・。

2010-12-21 11:11:53 | 介護

毎日、義両親が、今日はあそこが痛い、ここが痛い、とイタイイタイ合戦をしている。

わたしが付き添って殆ど一日おきに医者通い。

昨日は、整形外科と内科と眼科に行くという。

わたしは午前中の地元合唱団の指導の前に、朝一番に本人たちの診察をしなくてもいい整形外科へ処方箋だけを取りに行って薬局で薬を処方してもらう。

その間に親たちは内科へ。

午後、練習の帰りに買い物をしてお昼を食べて休んでいると、内科のあとに眼科に行った親たちから、熱があるという電話が入る~。

即、立石の眼科へ急行。義父はフラフラ、耳が聴こえなくて認知症の義母はオタオタ。

ふたりの腕を支えるように抱えてタクシーの通る通りまで出る。

言ってることが支離滅裂な義母を家に送りこみ、朝診てもらった内科へ父を連れていく。

熱を測ったら39度2分。

インフルエンザの疑いあり、と医者の診察。(すでにインフルエンザの予防注射は受けているのに違う型のインフルなのかな?)

すでに4時を過ぎているので、おけいこの生徒の時間をずらしてもらい、義父を家に送りこんでから薬局に引き返して薬を待つ。

今は超速効性の、小さい容器から吸い込む薬があり、熱さましももらってしばらく寝ていたら次第に熱は下がってきた。

肺が弱っているので今夜熱が下がらず苦しいようならすぐに救急車を、と医者から言われたので、覚悟したが、そうならずにすんでよかった。

おけいこの生徒の合間をみて、3階に様子を見に行くと、義父と一緒に横になっていた義母が「ごはん、どうしよう?」と聞く。

いつもなら、夜は何かしらおかずを早めに作って3階に持っていくのだが、今日はそういう時間がないのに!

「お義父さんは、食べられないのだからお義母さん一人分くらい自分でなんとかしてよ!!」と心の中で叫びながら「じゃあ、超特急でおにぎりつくってきますよ」と生徒に自主練習させながら、おにぎりを作って上に運ぶ。

生徒の時間がずれたので、夜8時におけいこが終わり、様子を見に上へ行くと義父はすっかり熱は下がったらしく、おせんべいなんかを美味しそうに食べている。

眼科から転びそうなふたりを抱えて歩いているときも、生徒のお時間を気にしながら医者と薬局の間を駆け回っていたときも、「誰か助けて~!」と叫びたかったくらいなのに、なんだか気が抜けた。

いつもそうだ。

義父は、今にも死にそうに具合が悪いときも、翌朝はけろりとしている。ちょっとした「狼少年」になりつつある。そういう意味ではお医者さんにも呆れられている。

義母は、わたしのおけいこの最中にやってきて、誰かが家の壁に落書きしていった、部屋に馬が入ってきた、誰かがトイレに金粉を蒔いて行った、あそこが痛い、具合が悪い、と話していく。

ヘルパーさんを週4日頼んでいても、最後に頼ってくるのは殆ど一日中家にいるわたしである。

一昨日は夜中の12時に呼び出しピンポンが鳴って「テレビに誰か写ってるからきて」と呼ぶ。

毎晩、おけいこが終わって食事の支度をして必ず3階の様子を見に行くから、こちらの夕ご飯は9時である。

先日、ケアマネージャーさんが来て調査のあと、「おふたりは共依存症ですね」とはっきり言った。

高齢者(ふたりとも84歳)が弱ってきたとき、家族が穏やかに接しながら手を貸さなければならないことはよくわかっている。

もちろん仮病を使っているわけではないし、認知症は曜日や時間の観念もなくなってきて、話が以前のように通じなくなってきているのだから。

いい嫁になろう、なんて毛頭考えないけれど、病気になった親を見過ごしにはやっぱりできない・・・・・そうなると、この状態でこのままいくと、わたしは自分の仕事も生活も遊びも(東海道歩きも)できなくなる時がくるのか。

愚痴を言ってもどうなるものでもないとは知りながら、年寄りとの同居に悩みつつ、今日も3階と1階の間を何度も往復する。(おかげで足腰が鍛えられるわ~^^)

 

 

 

 

 


リベンジ失敗しても・・。

2010-12-12 22:28:42 | 一泊以上の旅行記

東海道中の旅で、7月に由比付近を歩いた時は時期が合わず見ることができなかった桜エビ干しの光景。

干しエビ漁は、春と秋のわずかな期間のみだが、秋は12月初めまでは干しているという情報を得たので、あの時のリベンジ!と車で出かけてみた。

9時に家を出発し、東名高速と国道1号を使って、わずか2時間半で着いてしまう。歩いて行くのとはエライ違いだ(当たり前だ)

調子よく、富士川河川敷に着くが探しても、富士川を渡って蒲原側の河川敷を見渡しても真っ赤な干しエビの絨毯はどこにも見当たらない(汗)。

土手に居合わせた地元のおじさんに、聞いてみると、「12月になるともうやってないなあ。それに最近は、土日は漁は休むし・」という事だった。

今度は漁業組合に電話してから来るといいよ、とご丁寧に漁業組合の電話番号まで教えてくれた。

5分間くらい意気消沈したが、せっかくここまで来たからには、ただで帰るのはもったいない、今日は素晴らしいお天気で富士山はきれいに全景が見える!では、富士山の周りをまわっていこうと話が決まる(得意のいきあたりばったり道中^^

富士インターから西富士道路を北上して朝霧高原へ。

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食事中の牛さん、不思議なことに右側の牛さんはカメラを向けるとこちらに寄って来てポーズを取っているようだった。

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道の駅のレストランで、ろくさんは、地元「ヨーグル豚」のとんかつ定食を注文。

(メニューを読み違えて「ヨーグルト豚」かと思ってしまった)

富士山は南側から眺めると、貴婦人的な美しさとなだらかな裾野を見せている。

↓富士川河川敷からの眺め。

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三島あたりからの富士の姿は特によい。

西側からは、すこしづつ男性的な山容に変わり始める。

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鳴沢の樹海を抜けて北に回ると、あんなにくっきり見えていた姿がわずかな数分の間に、すっかり雲で覆われ、誰かが教えてくれなければ、そこに富士山があるとはわからないくらいである。

↓北西側の本栖湖からはこんな姿。(一昨年12月28日に撮影)

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渋滞もまったく無く、16時半には東京に着いてしまった(@@!)。

年の暮も間近なこの時期に、富士山周遊なんてする人はあまりいないのかもしれない。


東海道を歩く⑭浜松~舞坂~新居~白須賀~二川

2010-12-07 20:02:48 | 東海道五十三次

12月5日(日)晴れ

風が昨日よりだいぶおさまる。

6:50

昨夜コンビニで買っておいたパンとインスタントコーヒーで簡単な朝食をすませ、ホテルを出発。

大通り(東海道)に戻り、ひとつ間違えて道を左折しまったことに気づいて踵を返し、正しく田町の交差点を左折。このあたりが浜松宿のメインらしい。高札場、本陣跡などの立て札があるが、いずれも大きなビルや道路の脇に埋没しまっている。浜松城は田町の交差点を北へ行くらしい。

↓間違えた通りにあったバス停。楽器の町らしくピアノです。

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新幹線のガードをくぐると左側に「二つ堂」のお堂が見える。二つ堂と云うからには、もうひとつどこかにあるだろうと見回すと、道の向かい側に双子のようにありましたありました!

藤原秀衡の奥州征伐の折りに、彼の許嫁が、秀衡が病死した知らせを受けてこのお堂を建てた亡くなった。ところが、彼は生きていて今度は彼女のためにもうひとつのお堂を建てたといわれる。

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道を挟んで仲良く建っている。↑↓

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ここからは途中に「麦飯長者」の立て札や高札場跡がみられるが、次の宿場「舞坂」までは、ずっとまっすぐな国道257号線。

こんな地名の郵便局があり、なんと読むのかふたりで首を捻る。

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地図を丹念に調べたら「ぞうら」と小さく出ていた。歩いているとおもしろい地名に出くわして、それも楽しい。

やがて、257号がふたつに分かれる地点で右の道をとる。東海道は静かな道になって延々と続く。小休止を取りながら歩いて行くと、舞坂の松並木が見えてくる。770メートルも続く長い立派な並木。左側歩道には東海道五十三次の宿場を示した石碑が五十三個並べられている。

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松並木が途絶えると、目指す舞坂はもうすぐ。古くはこのあたりからを「今切」と呼んだ。

淡水湖であった浜名湖が、室町時代の地震で海とつながったことにより、陸地がここで途切れたことで海上を舟で渡ることになり、この「今切」という名がついたらしい。

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舞坂宿に入ると、湖が正面になるので前方が開けたのどかな宿場の道となる。

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11:00

本日の目当てのひとつである舞坂宿脇本陣跡に着く。東海道の中でただひとつ残された当時のままの脇本陣である。旅籠「めうがや」も兼ねていた。(「めうが」は茗荷の転訛、紋どころが茗荷をかたどっている)

中に入ると「自由にご覧ください」と上り框に立て札あり。

無料である。誰もいない~。中は暗い。

「ごめんくださ~い」と二,三度声を出してみたら、ボランティアのおばさんがやってきた。

「すみませんね、今日初めてのお客さんですよ。今電気をつけますからね」と言って、ちょっと説明をしたあとまた消えてしまった。

もう一度現れたら、今度は10歳くらいの3人の女の子がおばさんのあとにケラケラ笑いながらついてきた。サンダル履きだから地元の子たちである。

おばさんがいろいろ説明してくれる間、奥座敷に設えてある殿様用の座布団に(手を触れてはいけないはずなのに)座って談笑したり、よく手入れされた中庭で駆け回っている。

おばさんに、「この子たちが遊びまわっているけどいいのでしょうか?」と聞いたら、「ときどき遊びに来るんですよ、こっちはハラハラしますけど、こんな重要な遺構で遊んだことは大きくなって懐かしく思い出すでしょうね~」と仰る。う~ん、素晴らしい考え方だ!と唸る。

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東海道の地図、次の宿場にある新居関所を通るための女手形なども展示。新居関所を境に東西の文化が大いに違ったらしい。

「あっち(新居から先)は言葉がかなり違いますよ、お雑煮の餅の形もこのへんで変わるようです」と、おばさん。

彼女の言葉からは、この舞坂は「東文化圏」にある、というニュアンスが伝わって、面白かった。わたしたちの感覚だと、「東」はせいぜい静岡県あたりまでなんだけどなあ。(ここで、まだ舞坂は静岡だったことに気づく。静岡県は事ほど左様に横長である)

女の子たちは、依然として、ここかと思えばまたあちら、と場所を替えて笑いながら遊んでいる。まるで「座敷わらし」のようだ。

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脇本陣を出るとすぐ浜名湖が見えて、今切の渡し場「北の雁木」になる。雁木(この地域では「がんげ」と読む)とは船着き場のことらしい。本来、東海道はここから水の上をゆく。

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内海(湖側)と外海(海側)をわけるのは、現在浜名湖バイパス。舟のない今はJR弁天島駅野前を通って新居宿まで陸路を迂回する。真昼の太陽が照りつけてきた。顔の左側だけ陽に焼けそう~~(--;)、今も渡しがあればよいのに!

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↑新居宿の手前のうなぎ屋さんの前に泳ぐうなぎの吹き流し(^^)。

新居宿に着く。道の左側に関所が待っていた。

箱根の関所、中仙道の木曽福島の関所、と並んで三大重要関所である。ここは当時の建物がそのまま復元されて残っている。

地震や津波の地殻変動、その後の道路変遷で今や道の上だが、当時は湖から直接上がったところに関所があった。ここを越える人も越えられなかった人も大変な思いをしたことだろう。

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105←改め方の蝋人形。

109 ←手前の用水は、湖から入る関所入り口(東口)を模している

関所を出ると突きあたりが本陣跡、ここを左に折れ、次の宿場「白須賀」をめざす。

1:00

お腹がすいてきたが、食べるところもコンビニも全く見当たらない。ここまで、神社の境内などで持参したお菓子やパンを食べたので、どうにか持ちこたえられそうだが、白須賀あたりは、電車は通らず、バスは休日運休、お店もほとんどないとわかっているので、少々心もとなく、ペースもガクンと落ちる。道はここから遠州灘に向かって南下する。

加宿(本宿のあとにできた宿場)の橋本を過ぎると左側に若い松並木が延々と続く。

江戸時代からあといったん立ち枯れた松を昭和になって植え直したらしい。

落ちた松葉が降り積もり、その上を歩くとなんとも心地よい。土や植物は疲れた足にとてもやさしい。

通りには殆ど車も通らず、右側の家々はひっそりと静まり返り、すべての住民がいっせいに昼寝をしているようにも感じられる。ほんとに静かだった

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さあ、がんばって歩いていると白須賀宿の看板がみえてきた。ただしここは、元の白須賀宿

宝永年間の津波でこれから登る汐見坂の方へ宿場ごと引っ越したらしい。忘れ去られそうなひっそりとしたこの元宿場町の趣もまたよい。

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これから坂を登るぞ~、と覚悟したその頃、ひとりのおばあさんが枯れ草を積んだ手押し車を押してやってきた。わたしたちはずいぶんと疲れた風体をしていたのだろう、

「××××・・、がんばって行きんよ~~!」と声をかけてくれた。(×の箇所は方言のせいか聞き取れない)

こんなふうに思わぬところで思わぬ人に声援をかけられると本当に嬉しくなってがんばれる気がする。

坂の手前の曲がり道にある農家の前にたたずんでいたおばあちゃんも、さかんに「寄って行きんさい、いいもの見せるから~」と呼んでいる。「いいものってなんだろ??」と後ろ髪引かれながら、「ありがとうございます、時間がないので先に進みます」と断って歩く。

汐見坂に入る。まあ、少しはきつかったが、エールが効いているのか、たいしたことなく頂上?の「おんやど白須賀」に着く。

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「おんやど白須賀」は、食べるものはなく、お茶だけは自由に飲めるようになっている茶店&資料館で、ボランティアだか管理人だかのおじさんが常駐している。

次の宿の二川(ふたがわ)まではどのくらいでしょうかね?と聞くと「あと8キロ」と、のたもう。

「ひえ~、8キロ!!」と半分わかっていたのに雄叫びをあげてしまった。

実は、今日の歩行は、新居宿にするか、白須賀までにするかさんざん迷ったのだった。

新居だと、浜松から約17㎞で短すぎる、二川までだと新居から約12㎞ で長い。

白須賀から帰るのが、距離的にはちょうどよいのだが、白須賀は前述のように交通手段がないので、ヒッチハイクでもするしかないのだ。わたしが、そうしようかしら?と冗談で言ったら、ろくさんが「ヒッチハイクはもう少し若くないと・・!」ですと~。

おじさんが「白須賀本宿を過ぎると国道1号を歩くようになるよ、コンビニは2軒だけあるよ、まあ、がんばって行きなさい」と情報&エールをくれたので、この際、もう二川まで行くしかない、と決定。だいいち、二川まで歩いておくと次回が楽なのだ。

3:00

「おんやど白須賀」を出発。汐見坂公園跡からは遠州灘が一望できる。運が良ければ東に富士山も見えるらしい。

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少しづつ坂を下って行くような感じで歩くと、やがて白須賀の本宿(元の宿から移転したもの)の街並みになる。

まったく静かである。黒い格子の家々はひそやかに立ち並び、人が住んでいるのかしら?と思っていたら一軒の家から、お葬式でもあるのか、黒い服を着た男女がふたり出てきてどこかにでかけた。宿場の入り口には曲尺手(かねんて)の標識板がある。曲尺手とは、今まで幾度となく宿場に入る際に見てきた枡形(宿場、あるいは城下町の外敵の侵入を防ぐためなどに、わざと直角に近く曲げて作られた道)と、同じ意味の道。

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白須賀を過ぎると、国道1号線を4㎞ほどひたすら歩くことになる。

おじさんの言っていたコンビニをでチキンバーガーなどを買い、立って食べる。遅いお昼ごはんである。

しかし~、お腹がすけばなんでも美味しいものだ。

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さて!出ました!境川の小さな流れを越えると「愛知県」の標識。けっこう感動ものでした。

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この国道1号線はもちろん車がビュンビュン通り抜けていくのだが、途中はどこまで眺めても一面のキャベツ畑!!

コオロギを売ってるお店などもあり、なかなか飽きないし、愛知県に入ったという喜びで疲れも吹き飛んでいた。

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やがて国道と別れを告げて新幹線のガードをくぐり、JRの踏み切りを渡ると「二川」の宿場である。

二川は、各家々の玄関先に必ず花が飾られており、昔の面影の残る趣のある宿場である。

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こんなノレンも多くの家の玄関に下がっている。→

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宿場の中ほどに本陣跡がある。ここも数少ない当時の遺構を今に伝えるもので、見学しようとしたら4時半で受け付け終了。時間はすでに4時40分。

それでも表から中の様子がよく見えるようになっているのでありがたい。

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本陣と併設されていたのか、旅籠で草鞋を脱ぎ足を洗っている旅人の蝋人形などが展示。本陣の方の部屋には、高貴な女性が宿泊するためにあるのか、色とりどりの着物が掛かっている部屋もある。

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5;00

もはや陽が落ちて、紺色の帳に包まれた宿場町をJR二川駅へと向かう。駅は街道筋にあるので楽であった。

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5時16分発浜松行きに乗り、浜松から6時36分発「ひかり」に乗り換え東京駅に8時近くに到着。

いやいや、疲れたけれど、充実した長くておもしろい1日であった。今日のコースは東海道でも屈指の、昔の風情を漂わせる街道歩きだと思う。

本日の歩行距離、約30㎞(今までの最長距離)。京都まで約210㎞。


東海道を歩く⑬袋井~見附~浜松

2010-12-06 22:37:06 | 東海道五十三次

12月4日(土)快晴

前回の歩きで剥がれた右足親指の爪も再生してきたし、義両親の病院送迎も今週はなくなったので、ほぼ一ヶ月半ぶりに出かける。

東京駅8時26分発「こだま」で掛川→掛川着10時10分→掛川10時17分発JRで袋井。

途中、三島から眺めた富士山が素晴らしい!

10:30

袋井駅着。駅から北進して前回歩き終えた旧東海道「静橋北」の交差点を左に折れる。

いつもそう思うが、以前に来た場所に時をおいて立ち戻るというのは、タイムマシンで時空移動したような気にもなり、一気に間の時間が消滅する。

2キロばかり歩くと左手に澤野医院記念館という白い洋館がある。

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昔の医院や歯科医院を資料館にした建物は、宿場のあちこちにみられる。たしか蒲原の宿にもあったと記憶。

外観だけ見て立ち去ろうとすると、ちょうど玄関脇に居合わせたボランティアのおじさんが「どうぞ、入って下さい、無料ですよ」と誘う。

「無料」という言葉に弱いものだから、「それでは」と中に入って見学。

ここは享保12年に作られたそうだから歴史は古い。

大正時代から昭和にかけて使われた診察室、手術台やレントゲンの機械などが置いてあり、なんだか懐かしい。つい最近まで葛飾あたりでも見られたお医者さん、という感じ。

2階の展示室には、袋井市の愛好家が寄贈したらしい写真や絵が陳列。

おじさんは「この町は何もないもんで、近所の人から寄付してもらったものを展示しております」と恐縮していた。(が、なんとかいう映画のロケ地になっている)

30分ほど見学して次の宿場「見附」を目指す。

川井の交差点を通過してまもなく「木原畷(きはらなわて)古戦場」と書かれた標識がある。

その中の、徳川家康が三方ヶ原の戦いにのぞむ前に参ったといわれる「許禰(こね)神社」に着く。

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010家康が腰かけた石なんてのもある。

すでに磐田市に入り、トンボのマークのマンホール出現。なぜ磐田がトンボなのか、よくわからない。わかる方教えて!

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さて、国道を左に入り、明治の道と呼ばれる坂道を抜けると、地図で目をつけていた「鈴が森刑場」の看板が道の右側にみえてきた。

品川から歩いた立会川の道の端にあった鈴が森刑場跡の不気味さが印象に残っているだけに、こちらの遠州鈴が森刑場はどんなものであろうと、怖いもの見たさで楽しみ(?)にしていたのに、こちらはわずか2平方メートルくらいの小さな草むした土地の中にぽつんと読みとれない字の書かれた石碑しかない。

う~ん、ちょっとがっかり。

それにしても、東京にごく近い神奈川と、静岡の西方の磐田市になぜ、同じ「鈴が森刑場」という名がふたつあるのか、不思議である。

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ここからすぐに見附の宿場の入り口に着く。その標識ある手前に愛宕山神社の階段を登ると市街が一望できる。阿多古山一里塚も神社の裏手にある。

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この神社には、裸祭りの行事があるらしく、それに関する注意書きがまたおもしろい。裸でも、こんないろんなものを身につけなくてはいけないらしい。↓

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神社をあとにして、見附宿の立派に舗装された道路が続く。

まもなく右側の奥まった場所に「旧見附学校」という、実に美しい外観の建物あり。日本最古の洋風建築の小学校であるらしい。見附宿の高札場跡でもある。

036 旧見附学校。

13:00

旧見附学校の向かいの蕎麦屋で「うめ天おろしそば」なるものを食す

梅干し味のたぬきそばみたいなものかと思って注文したら、梅味の山菜蕎麦に5種類ほどの天ぷらがバーンとついているボリューム満点のもの。

まだお昼の時間帯というのに、店のおばさんは「お蕎麦はもうありません」とか「ラーメンはおしまいになりました」などと後から来るお客さんの注文を断っている。断られたお客さんは殆ど、丼ご飯ものに切り替えていた。

また、このお店は注文してから出てくるのが遅い!蕎麦は作るのも食べるにも早いので、旅にぴったりの食べ物だと注文するのに、こう遅くては、時間がどんどん過ぎて16.5キロ先の浜松にいつ着けるのか不安になる。

次回から急ぐ時には「一番早くできるのはなんですか?」と聞くことにしよう

13:50

まあ、とにかくも、お腹一杯になって一路浜松に向けて歩きだす。

東海道は、旧見附学校の少し先を左に折れ、JR磐田の駅の近くまで出るのだが、このあたりはサッカーチーム「ジュピロ磐田」のお膝元、チーム旗が道のあちこちにはためいている。電柱の突先もサッカーボールです

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駅付近の和菓子屋で「いちご大福」が美味しそうだったので一個買って食べる。いちご大福をちゃんと食べたのは初めてかもしれない。とても美味しかった~☆

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駅前の道を右側に折れてしばらく行くと、もうすぐ天竜川。

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昔からの「天竜川橋」は歩道がなく危険なので、「新天竜川橋」(片側4車線の非常にだだっぴろい橋)を渡る。

いやいや広い広い!滑走路のようなその広~い橋に猛烈な強風が情け容赦なく吹きつける。風でヨレヨレになりながら、東を振り返るとかすかに富士山の白い頭が見える。「お~、ここからも富士がみえるのか」と感嘆する。富士山が見える限界はどこまでなのだろうか。

写真は新天竜川橋から天竜川橋を見渡したもの。

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15:20

ようやく橋を渡りきると中野町と書かれた標識がある。どうやらこのあたりが距離のうえでの東海道ど真ん中であるらしい。土手を左に歩いてすぐに昔の天竜川の舟渡し場跡がある。

(天竜川は徒歩渡しでなく舟渡しだった)

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昨日の嵐が去り、素晴らしいお天気に恵まれ、気温上昇を半分恐れていたのだが、(暑さは歩く時の一番の敵!)、強い風のおかげか、いつものシューズをやめて履きなれたタウンシューズを使用しているせいか、汗もかかず足も快調、今日は不思議なほど疲れない。

でも、調子がいいからと突っ走ってしまうと、いつでも後悔する破目になる我々は 、休憩はマメに取りましょう、ということで、松林寺というお寺のお堂の前で一服。なかなか学習したものであ~る(^^)

ちなみに、松林寺のこのお堂は文化財級の薬師堂であるらしい。

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4時近くになり、そろそろ日が傾き出して、まっすぐ西に向かう道からは沈んでゆく太陽がまぶしい。下ばかり見て歩いていたらブロック塀にぶつかりそうになる。

馬込川を渡ると、東海道は立派な大通りとなり、浜松の新シンボルであるアクトタワーが見えてくる。浜松はなかなか立派で、政令都市の名にふさわしく、新しいビルがどんどん建てられている様子。

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途中の磐田のあたりで予約した「ビジネスホテル辻梅新館」は駅の南口なので、東海道からはだいぶ歩かなくてはならなかった。

5:30

ホテル着。人のよさそうなおばちゃんが玄関で出迎えてくれる。風が強くて寒かったでしょー」と盛んに言うが、こちらは歩いてポッポとしている。

ガイドブックにあった宿泊料より2000円安い一人4500円だったのは嬉しかった。(ただし食事はついていない

夕飯はうなぎを食べに再び町に繰り出す。味はイマイチであった。

本日の歩行距離、約22㎞。京都まで約237㎞。