寒い朝、青い空に富士山がくっきり!
こうなったら出かけなくては気が収まらない。
冬の奥秩父目指してドライブ。
荒川の源流を訪ねるような旅となりました。
関越も国道140号もスムーズに流れて1時間半で長瀞に到着。
秩父鉄道に沿って走る。
秩父の道はとにかく長い。
そのためかトイレが道路のあちこちに整備されている。
ここから「大滝三十槌の氷柱」のある大滝村まではさらに40分ほど。
10時を過ぎて太陽は当っているが、霜や氷がまだ溶けていない。
残念ながら「三十槌の氷柱」はまだ時期が早く、滝は凍っていないので見ることができなかったが、「大滝元気プラザ」に寄り、山の空気を満喫して秩父湖まで下る。
↓ 元気プラザ(研修所)の前庭。
雪の残る道路を徐行しながら140号といつのまにか別れ、秩父往還道に出る。
道の幅、曲がり、集落の様子、から見て地図が無くてもすぐに街道とわかる。
まもなく栃本村の関所。
ここは全く予備知識もなくあてずっぽうに走ったら偶然出くわした場所。
こういう思いがけないところから道の今昔を知る手がかりができるから旅は
おもしろい。
街道の途中に甲州と信濃への追分あり。
↓ 追分の道標。
まさにここが甲州信州への大事なバイパスであったことがよくわかる。
地球の芯から湧き出すような冷たさ、しばらく歩いているとしんしんしんしんと足の裏から冷えてくる。
土地の人の話でも今日は特に冷え込んだようである。
洗濯ものをとりこむおばさんが「今日は寒いね~!!」と声をかけてくれる。
このあたりは以前、民宿であった名残の古い家々が山肌に吸い付くようにひっそりと
立ち並ぶ。
民宿としては昭和四十年代までは湯治客や秩父霊場めぐりの人々で栄えたものの、
現在では訪れる観光客は皆無であるらしい。
ましてや、この時季に東京からやってきたわたしたちは大変変わり者らしく、道を教えてくれたおじさんも「へえ~・!東京から?!」と驚いていた。
↓ 元は民宿を営んでいた大きな民家。
関所の前から甲州側を眺めれば山間に憧れを誘うように雁坂峠の突先が陽に照らされている。
いつも車で東京に帰るとき(特に中央道)に秩父の峰々が関東の壁のように立ちはだかっているのを見て、いつか秩父路をゆっくり訪ねたいと思っていた。
今回は冬だからか、「厳しい土地」というイメージを強くする。
あたたかい季節ならもっと歩いてみたい。
栃本から道を下り再び140号に合流して滝沢ダムの周りを通って荒川村に戻る。
荒川村歴史資料館を見学したあと、手打ちそばの店で、かけそばと天ぷらのお昼ごはん。
とにかく暖かくて美味しかった♪
ここから、本日のもうひとつの目標であった埼玉県の「深谷」へ足を延ばす。
深谷は「ねぎ」で知られるところだが、それにもましてこの地を有名にしているのが、
明治の銀行家、渋沢栄一を生んだ土地であることと、煉瓦工場である。
なんと、深谷の駅舎は煉瓦造り!
しかし、これは最近できたもので、煉瓦を模したパネルである。
深谷は広々としている。美しい山並みに囲まれた田畑。
市外の上敷免(地名)の煉瓦工場を訪ねてみたものの、すでに生産は中止され、資料館のみ残っているが、まだ生産が盛んであった頃の賑わいは全くなく、ただ一本、存在を誇示するかのように工場の煙突がひときわ大きく空に突き出している。
「起会」(おきえ)というこれまた珍しい地名の町に公民館があり、その敷地内にこの煉瓦を
使って建設された渋沢栄一の喜寿を記念して造られた建物があるというので行ってみた。
「誠之堂」と「清風堂」である。
ここは大変に興味をそそられる建造物であった。
(帰宅して調べたら、この記念館の前の道はなんと「旧中山道」であった。さらに深谷の煉瓦工場で使われる窯は葛飾区の小菅で作られたもの)
最初に建てられたのは大正5年、世田谷区の土地にあったのが平成になってこの深谷の地に建物ごと引っ越して(里帰り)したそうである。
↓ 誠之堂。
外壁も内部もひとつひとつ見事に煉瓦が積まれている。
↑ この煉瓦の積み方はイギリス式。
積み方の違いについては富岡製糸場で見学しているので、見た瞬間にわかる。
ドアの金具も当時のまま。
東京の古河庭園、岩崎邸のように広くはないが、と木と煉瓦の重みをずっしりと伝えてくれる。
ちなみに深谷製の煉瓦は東京駅舎や日本銀行旧館にも使われている。
↓ 清風堂の内部。
内部外部のひとつひとつの歴史や造作について、ボランテイアのおじさんがユーモアを交えながら丁寧に説明してくれてわかりやすく楽しい。
↓ ステンドグラスはなぜか韓国や中国のイメージ。
記念館を辞する頃はちょうど4時頃で、山並みの向こうに冬の陽が沈むとき。