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回遊魚の旅日記

時の流れる音をききながら歩いたり歌ったり
少しづつ昔の暮らしをとりもどしつつ。

東海道を歩く⑰知立~鳴海~宮

2011-05-06 23:11:40 | 東海道五十三次

5月4日(水) 晴れ時々曇り

7時。ホテル出発。

朝の知立駅を踏切からみるとかなり多くの路線がここから出ているのがよくわかる。

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ホテルでは朝食はつかない。どこかで喫茶店にでも、と思ったが、今日は宮まで歩く予定としたので時間節約のため、国道①沿いのコンビニ・ローソンでパンを買い車止めに座って済ませる。

今川町あたりで国道①から左に入るとすぐに下のような説明板。

「ひもかわうどん」は実はこの地の「いもかわうどん」が発祥とのこと。

わたしが育った家庭ではぺったらこにつぶれたうどんを「ひもかわうどん」と呼んでいた。

高校生くらいになって「ひもかわうどん」が名古屋の「きしめん」と同じものであるらしいと知ったのだが、はっきり同一のものであるかは今もって謎である。(ネットで検索することにしよう)

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この町もまたところどころに古い家が並んでいる。静岡を越える頃から西はけっこう昔の街並みが残されているようだ。

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そして境川に架かる境橋を渡る。文字通り三河と尾張の境の橋。いよいよ名古屋も近い。

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しばらく歩いて阿野の一里塚。現在は旅人が一息つける昔のままの一里塚は殆ど残されていないが、ここは、正しく道の両側にあり、それも当時のままの場所である。

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道を歩いていると、面白い地名に出くわす。「前後」駅という名前。いったいどこの(何の)前後なのだろう?

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知立から鳴海あたりまでは馬市場で賑わった場所。広重の絵にも馬市が描かれている。馬で名を馳せたところから来るのか中京競馬場前の駅もあり、その手前の名鉄のガードをくぐると左手に今川義元と織田信長の戦いの場である桶狭間古戦場跡がある。現在は小さな公園になっており、まわりは新しい建物が多く今川義元の首塚が往時をしのぶよすがとなっているにすぎない。

138 ←桶狭間古戦場跡。

141←古戦場公園手前の横断歩道前にはこんな宣伝幕が掲げられていた。

さて、ここから歩いてほどなく、今回もっとも印象に残った街並みの「有松」に着く。ここは知立と鳴海の間宿(あいのしゅく)である。名にしおう絞り染めの産地で有松絞りによって財を築いた商人たちの意気込みが今に伝わる宿場町。店のノレンも絞り染め。

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質問。この有松の街並みの写真を見て何か、気付きませんか?

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そう!電線がないのです!持ち歩いていた2008年版のガイドブックには、まだ電線があるし、道路が舗装されたばかりだったので、たぶんごく最近地中に電線は埋め込まれたのだと思う。電線が見えない街は埼玉県の川越もそうだが、なんと広々として制約がないのでしょうか!?

(道の端にみえるゴミ袋が生活を語ってまた良き哉^^)

そしてそして、この優美さえ感じる有松の街が途絶えるとすぐさま眼前に立ち塞がるのが、できたばかりの名古屋第2環状道路の橋げた!これにはたまげた

う~む、この時代のギャップはどうだろう。

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有松を出るとまもなく鳴海の宿。ここでは鳴海城の曲手(かねんて)と思われる曲がり角の和菓子屋さんで柏餅を食べた。

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いよいよ鳴海から宮宿へ向かう。

おおきな天白橋を渡って旧道に入るとすぐに笠寺の一里塚。ここで一服。

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159 ←太鼓橋が目立つ笠寺観音の前。

なぜかこの笠寺観音境内だけは、人で賑わっていた。

11時半。名鉄の踏み切りの近くの喫茶店で昼食。残念ながらモーニングタイムを過ぎていたので名古屋式おまけ満載の食事ではなかったが、カレーライスを食べて再び歩きはじめる。(朝はコンビニのパンとお昼はカレーで本日の食事は節約ムード)

地名は本当におもしろい。↓「よびつぎ」と読む。

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まもなく山崎橋。「北あつた」の標識があり、熱田神宮も間近という嬉しさでゾクゾクする

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しかし喜びもつかの間、橋を渡って前の道を行くか、左に曲がるかで迷う。

の道を行く。(これは今もって間違いだったか正しかったか判然としない)歩いて行くと高速の下の空港通りというだだっぴろい道に出くわした。名古屋の道は広いので横断歩道があまりない。迷惑千万な歩道橋を越え、車のブンブン走る国道①沿いのGSのオニイサンに道を聞いたりしながら、ようやく熱田神宮の参道に出た~。

熱田神宮は東海道中ではないのでパス!神宮を右に見て、またまただだっ広い道に架かる超迷惑千万な歩道橋をうろうろと行ったり来たりしながら宮の渡しを目指す。国道247号線を迂回して南下。道の右側に「ひつまぶし」の元祖「蓬莱軒」にお客が長蛇の列をつくっているのを眺めながらようやく宮の渡し公園に到着!!!!

旧東海道の愛知県はここまでで終わる。昔、旅した人々はここから渡し船で桑名に渡った。

↓ 「宮のわたし」の常夜灯に寄りかかる「宮に着いたわ・た・し」

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さて、再び熱田神宮方面へ引き返して名鉄で名古屋にいくのも疲れた。タクシーを奮発し一気に名古屋駅まで乗る。

14時47発のぞみで東京へ。

三河~尾張は、それまでとははっきり文化の違いが感じられて面白い旅であった。

本日の歩行距離、約17、5㎞。京都まで約144㎞。

 おまけ。名古屋駅ホームのお弁当屋さん。やはり名古屋は「きしめん」である。

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東海道を歩く⑯赤坂~藤川~岡崎~知立

2011-05-05 17:27:59 | 東海道五十三次

5月3日(火) 薄曇り。

8時10分宿を出発。

赤坂の外れの一里塚に近づいたら、あとから出発した自転車青年に「あっ」という間に追い抜かされた。

「道中気をつけて~!」とお互いに声をかけあう。(しかし早いなあ、自転車は・・)

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このあたりは瓦製造の土地なのか、崩れ落ちそうな古いお寺の屋根や、大きい家には素人目にみても素晴らしい細工がしてある。子供が学校で作ったのだろうか?軒下にもこんな可愛い瓦がずらりと並べられていた。

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国道に出る前の街道の脇は小さい川が流れていて、清々しく気持ちがよい。

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関屋から国道1号に合流すると、名鉄の赤い電車がみえる。線路の向こうは東名高速だから東海の3線が同時に並行してこのあたりを走っていることになる。ずっと名古屋までこの名鉄の路線は左右に添ってくれるので、赤い電車(ときどき赤くないのもあるけれど)が見えたらまず道は間違っていない。

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やがて左側の田圃の中に山中八幡宮の赤い鳥居が見えたので寄ってみる。家康が隠れた洞窟がここにあるらしい。もう一度、国道①に戻りなおも歩くと、新しい冠木門が見え、それを折れると本宿(もとじゅく)に入る。

本宿は東海道の宿ではないが、家康が幼少の頃修行したと謂われる有名な法蔵寺があり、新撰組近藤勇の首塚もある。東京板橋で処刑された近藤の胴体は三鷹方面に、首は京都を経てこの本宿にやってきたらしい。昔の人は首と銅を切り離されてあちこちに葬られてなかなか大変そうだ。

9時半。近藤さんの顔を見ながら石段に腰をおろして一服。

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次の宿場、藤川までの道でみかけた「名古屋牛乳」の看板。なんだか嬉しい☆

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藤川は広重の「藤川 棒鼻の図」でも知られている。棒鼻とは宿場の入り口を指すらしいが、もともとは棒の先のことで、わたしがどこかで聞いた話では、行列の籠の担ぎ棒が、城下町の枡形、曲手(容易に外からの者または敵が宿場に勝手に入る事ができないようにわざと鍵型に曲げて作られた道)の道に入るために担ぎ棒を後ろに引いたり脇道に押したりする際の動き、と記憶している。

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宿場のすぐ右側には名鉄が走り、藤川駅もすぐそば。古い家屋も軒を並べしっとりとおちついた宿場町である。

脇本陣跡に造られた資料館に入ってみたら、畳10畳ほどの小さな古めかしい館内。真っ暗で、訪問客は自分で電気をつけジオラマを見たり説明アナウンスを聞いたりするのだが、これはこれで節電効果もありなかなか展示物もおもしろかった

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ここから美合の町を通り、乙川に架かる大平橋を渡ると、郵便局を右折したところに白壁の立派な大岡越前守の陣屋がある。大岡越前守は江戸常住だったが、ここが領地であったらしい。

しかし、どこに行ってもどうしてこう人がいないのだろうか?不思議で仕方がない。

まもなく岡崎の宿。云わずと知れた家康の居城、岡崎城のある宿場町である。

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城下を囲むように二十七曲がりと呼ばれる曲がり角があり、標識に沿って行けば街めぐりとしてはおもしろいのだが、昔と違って道はどんどん新しく作られている。今の時代は27個も曲がって遠回りするのは無意味ではあ~る、と勝手に理屈をつけて、お腹もすいたしどこかでお蕎麦でも食べようと云う事になるが、連休のおかげでお店は殆ど休み。一軒だけ開いていた小洒落たイタリアレストランに入る。

13時50分。昼食。

旅の楽しみは「食」にもあるが、同時に早く食べられる!ということが不可欠である。蕎麦、寿司はその点、理にかなっているのだ。だがイタリアンは比較的時間がかかる。混んだ店で多少いらつきながら、チーズたっぷりのピザとコーヒーを待つ。時間はかかったがけっこう美味しい☆

思えば昨日から、豆腐、味噌、イモ類、と植物性食品ばかり摂取していたので、久しぶりの動物性食品であるチーズはしっかりお腹に落ち着いて、これからの歩行の原動力になった。

実はこのあたりまで、今日はどこまでの旅程にしようかとまだ決めかねていた。ここ岡崎では近すぎるし、知立までは遠すぎる、という少し中途半端な距離だったので。

しかし、ピザを食べて元気がモリモリと出てきて、知立まで行ってしまうぞ~、と心が決まったのであった。

さて、店を出て二十七曲がりは途中ですっ飛ばし、岡崎城も通り過ぎ、八丁味噌蔵通りを歩く。

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ここは、NHK朝のテレビドラマ「純情きらり」(宮崎あおい主演)のロケの舞台になった場所。たしか相手役の福士誠治が味噌問屋の跡取り息子役だった。

白壁、黒壁の味噌蔵が続く街並みは圧巻。

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味噌蔵通りから坂を上るとすぐに矢作川の矢作橋になる。渡ると国道①に沿って宇頭茶屋の町。

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途中「歩いて東海道ですか?」と犬を連れた妙齢のご夫婦に聞かれる。こちらと同じくらいの年齢かもしれないが感じのよい御夫婦だった。

まもなく「安城」の文字が見え始める。岡崎、安城、刈谷、といえば家康伝記の中に何度も出てくる地名で初めて訪れるのに、古くからの馴染みがあるような気がする。

さて、行く手にマックの赤い看板。これは懐かしい。

決してマックの食べ物が大好きではないが、今や国際的なこの商標をみると、ほっと安心してしまうのが不思議である。折しも安城の松並木が始まる場所に立地しているのが、時代のギャップを感じさせておもしろい。トイレ休憩を兼ねてふたりで一杯のアイスコーヒーを飲む。

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今にも雨が降り出しそうな気配の空の下、道は明治用水所縁の神社にさしかかる。この用水は知立までずっと続いていて土地の人の生活を潤していたらしい。これについてはまた後日調べてみたい。

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安城の松並木はさらに続き、今まで旧東海道を歩いて来て、なぜか松並木は必ず大きな工場の前にあり、住宅地では残されていないという事実を改めて確認する。

いよいよ雨が強く降り出した。もう宿泊地、知立までは数キロの位置。傘を片手に、よくこんなに早く歩けるものだと我ながら感心しながらひたすら、足を速める。あまりの速さにろくさんもびっくりしたそうだ。

雨で撮影できなかったが、知立の松並木は巨木が多く、なかなか素晴らしかった

国道①に再び出てようやく知立宿に到着。

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つい2時間ほど前に予約したビジネスホテルは知立駅前なので、ここからさらに一キロ。(はっきり言ってこの一キロが一番こたえた

18時ホテル着。

ホテルのおばさんが、チェックインしたとたんにデコポンを一個、「美味しいから食べてね」と渡してくれたことにちょっときょとんとしたが、嬉しかった。夕食は駅近くの居酒屋。

太ももが張ってはいるが、薄曇りという恵まれた天候のおかげもあり、今日はけっこう元気に歩けた。

本日の歩行距離、約30㎞。京都まで約162キロメートル。


東海道を歩く⑮二川~吉田~御油~赤坂

2011-05-05 13:29:07 | 東海道五十三次

5月2日(月) 晴れ、強風。

7時03分東京駅発新幹線のぞみ-----8時50分浜松発東海道線-----二川9時30分着

二川駅の改札を出ると赤や黄色や青の体育帽をかぶった子供たちの列に出くわす。近くの植物園への遠足だそうだ。先生たち、児童達があちらから「おはようございます!」と見ず知らずのわたしたちにあいさつしてくれる。

朝のはっきりしたあいさつは気持ちがそれだけでもしゃっきり。風は強いが良い旅の始まりを予感させてくれる。

飯村一里塚を過ぎ、11時頃に吉田宿に入る。

吉田は現在の豊橋市にあたる。遺構は殆ど残されていない。途中こんな看板を見かけるが、不動院さんの周りをぐるぐる回ってみても、それらしい入り口も見つからず、やり過ごす。

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東八丁のだだっ広い交差点に来ると市電の駅あり、赤い電車がやってくるのが見える。車社会の世の中で「まだまだ現役!」とでも主張しながら健気に走るこういう市電に乗りたくなる気持ちをぐっとこらえて、巨大な秋葉常夜灯や市役所を右に見て歩道橋を左に渡る。

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札木町交差点あたりはお店が立ち並び、いかにも昔の宿場の中心であったことを想起させる雰囲気。

まだ11時半だが、お昼を食べようということで、文政年間創業の「きく宗」に入る。いかにも古めかしい狭い間口だが、中はうなぎの寝床のように奥深く、小部屋がたくさん作られている。

ここの名物はなんといっても「菜飯田楽定食」!

固めに作った豆腐の上に甘い艶やかな八丁味噌がこってり。そこに黄色い辛子が一筋引かれ7本お行儀よくならんでいる。関東人はなかなかこの甘い八丁味噌に慣れないので馴染みがなく、「なんじゃこりゃ?」とびっくりするようだが、わたしは大いに気に入った。

普通のご飯茶わん3杯分くらい盛られた大根の葉っぱを刻んだ菜飯がまた絶妙の取り合わせ。

お値段1780円と高めだが、愛知に入っていかにも愛知の食べ物を味わったと云う満足感あり。ちなみに江戸時代の料理本「豆腐百珍」にもここの豆腐田楽は登場している。

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「きく宗」を出て、しばらく歩き豊川にかかる「豊橋」を渡る。川辺の水の際にいる人々は貝を探しているらしい。

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下地の一里塚を過ぎ、豊川放水路も越えると、豊橋と長野県辰野を結ぶJR飯田線の小坂井駅の踏み切りを渡る。う~ん、乗って信州伊那方面に旅したい!

旅は、予定した本筋を目的に向かって歩くことが主眼だけれど、その本筋から外れて各地方に遠ざかってゆく道や線路の行く先々に果てしない憧憬を抱いたり、または本当に外れてしまって風の吹くまま気の向くままに見知らぬ土地にさまよいこんでしまうのも、「いとをかし」なのだ。

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さて、吉田の次の宿場、御油(ごゆ)も近づいたかと思う頃、右側にすてきな喫茶店発見!

吸い込まれるように、緑に囲まれたその店の白いドアを開けると、ほのかなバラの香りの心落ち着く空間。

窓辺にリャドロの陶器のお人形、小さなランプとミニグリーンがテーブルに置かれた席に座り、500円のアイスコーヒーを注文。

アイスコーヒーひとつにしては時間がかかるなあ、と思いつつ待っていると、真っ赤なTシャツを着たマスターがシフォンケーキ、フルーツ、ゼリーの盛られたプレート、トマトジュースを一緒に持ってきた@@!

「あのう、頼んだのはアイスコーヒーだけなんですけど」と聞いてみると、「これはサービスなんですよ」とあっさり言う。↓ これで500円なり

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そうか、そういえば、名古屋に近づくと喫茶店のモーニングサービスではコーヒー一杯頼むと茹で卵やトーストはもちろん、デザートや他の飲み物まで出てくると聞いたことがあった。

う~ん、愛知県恐るべし!いいところだ

すっかり気をよくして足はずんずん進み、国府(こう)から御油の宿に入る。

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御油橋を渡ってちらほらと続く宿場の通りを歩くと、江戸時代からずっと変わらぬ有名な御油の松並木。

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約400年もの間、旅人に寄り沿って続いている松並木も、今では虫の被害や環境の影響で倒木したり、枯れたりしているが、後世の人々の努力で保存されているのはありがたいことである。

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地元の小学生たちによって植えられた松も育ち始めて、これも何十年後、何百年後の旅人が見上げるような大木の並木を作るのだろうと思うと、過去から未来への間に存在する「今」を本当にいとおしく感じる。

←広重の御油~赤坂松並木の絵

034 ← 松並木の赤ちゃん。

御油の次の宿、赤坂まではわずか1、7㎞と短い。

16時。赤坂宿到着。

街の中心に高札場跡も設置されている。GWだというのに人も通らず、本当に静かで夕暮れ時の海の「凪ぎ」のような空気が平らになったような赤坂の街並みである。

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本日の宿は、ここに1716年から続く建物、大橋屋さん→。040

赤坂は飯盛り女(当時の遊女)を提供する旅籠も多くあり大変な賑わいだったそうで、広重の東海道絵図、ほかさまざまな文献にも登場している。

大橋屋の創業はその頃からで、当時の旅籠が現在もそのまま旅館として使われているのは極めてまれである。

ガラガラと表の戸を開けると、黒光りした床に高い上がり框、壊れた時計に急な階段、少しカビ臭い匂い。

本当にタイムスリップ!ここはどこの時代じゃ?という感じ。

中には誰もいない。玄関のたたきに立って「こんにちは~」と呼ぶと薄暗い奥の厨房から名古屋弁こてこてのおばさんが出てきた。別にこの歴史的建造物を鼻にかけるわけでもなく、妙に愛想がよいわけでもなく、必要なことだけを喋って客間に通してくれた。

本日の泊り客は自転車で東海道を走破中の青年ひとりと、わたしたちのふた組だけ。

聞けば青年は4日前に品川を出発し、3日後に京都着の予定とのこと。途中の箱根越えや日坂前の小夜の中山越え、汐見峠の坂道の苦労話などで会話が盛り上がる。

夕飯前に山側に点在しているいくつかの寺社を散歩。

食事はしっかりした自然薯のとろろ汁、八丁味噌をかけたあたたかい山芋が美味しかった

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明日に備えて早くも9時に就寝。

5月にしては少し肌寒い「赤阪(坂)の夜は更けゆく~♪」のであった。

本日の歩行距離約18キロメートル。京都まで約192㎞。