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回遊魚の旅日記

時の流れる音をききながら歩いたり歌ったり
少しづつ昔の暮らしをとりもどしつつ。

東海道五十七次を歩く。③枚方~守口~大坂

2012-05-03 18:42:44 | 東海道五十七次(京街道)

5月1日(火)

今日から5月だ。

天候は昨日より少し持ち直し、暑くなる予感。ひたすら日焼けが恐ろしい。

昨日、サロンパスみたいな膏薬を買って足の甲に貼って寝たので本日は調子がいい。

が、無理はいけないので「枚方」から京阪に乗って「守口」の手前の「西三荘」(にしさんそう)

まで行く。

西三荘の駅を降りると、すぐに「パナソニック」の本社工場がどーんと広い敷地を構えている。

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創業者松下幸之助の歴史記念館も併設されている。

松下さんは生まれは和歌山県だから、ここ門真市は後年になって本社工場を移転した地。

パナソニックを過ぎて角を曲がるともう守口市。

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国道一号線を渡ったところに一里塚があるらしいが、それは確認できなかった。

その代わりにこんな銅像が~。

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また国道を渡り返していよいよ守口の宿場、そしてこの「京街道」の礎を築いた秀吉の遺産、

「文禄堤」の地形の名残が最も残る貴重な地域である。

守口宿の入り口。右の家屋は今も商いをする傘&提灯屋さん。

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本町橋、守居橋、の下は国道に通じる車道、昔はこの車道が川の流れであったことは言うまでもない。

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淀川も時代の中でいろいろ変遷を重ねたのだろう。それに連れ、また現代の世の中の流れの移り変わりによって文禄堤もその姿をとどめえなかったのはそう珍しい事ではない。

さて、「文禄堤」を降りて道標を過ぎ、もとは川の底であった国道一号をしばらく歩く。

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町の名前も「日吉」「豊秀」などが続き、秀吉のお膝元にはいってきたという感を強くする。

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やがて今市の交差点。

このあたりから道には京街道の「つたい石」が埋め込まれたいへん歩きやすい。

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左の道に入り森小路(もりしょうじ)商店街を抜ける。

関目の交差点を都島通りへ渡り、城下町特有の曲がり道(関目七曲り)をいくつも通り、

再び国道に出ると、沿道の旭国道商店街なるものが現れ、食料品、テント飲み屋などが連なる。

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こんな看板の店もあり、思わず笑ってしまう。「ピンポン」が「ピソポソ」になってるし^^↓

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野江の交差点を過ぎてさらに歩くとJR、京阪、東西線が交差する京橋の駅へ着く。

江戸時代まではこの京橋が、京街道(東海道五十七次)のゴールであったらしい。

↓ 京橋から眺めるビル群。

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家康の時代からは、もう少し西の高麗橋が基点となっている。

しばらく京阪の高架下に並ぶ商店街を眺めながら歩く。

やがて東京の丸の内のようなビジネス街、片町に入り、淀川の支流畔からは

大阪城が眺められる。

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五十三次で京都に着いた時と同じように「よくここまできたものだ」と感慨にふける。

左に天満橋の船着き場(昔の八軒家)がある。橋の上にのぼってみると淀川(大川)の

大きな流れが緑の川岸の真ん中を滔々と流れる。

↓ 天満橋船着き場近くから天神橋を望む。

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淀川から分かれるたくさんの掘割、用水。

大阪はこんなに水運によって栄えた街かといまさらのように思う。

熊野街道への追分標識などを通り過ぎ、中之島公園の左岸に入り込む

水路,東横堀川に架かる高麗橋に遂に到着!!

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里程元標は正しくここが京街道(東海道)の基点(起点)であると書かれてある。

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しかし、長い道程の基点にしては阪神高速道路に蓋をされて、さながら江戸の基点

日本橋と同じく、空は見えず、暗い道路の下道にすぎない。

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思えば、京都三条大橋の上は「あっぱれ!」と言わんばかりに冬の空が広がっていた。

時代は移る。

まあ、東海道五十七次、無事に歩いた事は何にもまして楽しい思い出になる。

またどこかの誰かが、東海道は本当はもっと続くよ~、なんて言わないでしょうね^^;。


東海道五十七次を歩く。②伏見~淀~枚方

2012-05-03 17:19:53 | 東海道五十七次(京街道)

4月30日(月)

2日目は宇治川、木津川、桂川が合流する淀川に沿う道を歩くこととなる。

「こんなに暑いのは異常ですわ」と、昨日到着した時に、宿のおじさんが京都弁でやんわりと言っていた。

今日は薄曇りで風もそよいでいて、歩くには絶好の天候。

この伏見の宿場の最寄の京阪電鉄の駅は「中書島」ちゅうしょじまと読むと知って驚く。

先々にも上手く読めない地名がどんどん出てくる。

宿は素泊まりなので、昨日買ったパンとインスタントコーヒーで朝食をすませ、

8時に出発。

実は、昨日伏見稲荷で足の甲を痛めてしまい、なかなか意気が上がらない歩行となるが

濠川が流れ込む宇治川の土手歩きは気持ち良い。

↓ 宇治川と濠川の間の三栖 閘門

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土手の斜面ではウグイスがのんびりと鳴いている。

巨椋橋(おぐらばし)を渡り、宇治川大橋に沿う道を行こうとするも、車が多くて横切れず

いったん橋を降りるが再び上る階段がなく、仕方ないので土手下の道を回り込む。

すると、京都南部クリーンセンター(清掃工場)の敷地に入り込んでしまった。

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ん~~、歩いていると意外な景色も楽しみのひとつだが、まさか清掃工場の中とは!

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敷地内にある野球グラウンドのベンチで休憩。隣のグラウンドでは高校生が練習中。

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旅に出て、ここにこうしている意味はいったいなんだろう・と不思議な気持ちに包まれながらその練習風景を見ていた。

クリーンセンターから府道に出て「納所」(のうそ)を通りまっすぐ歩くと京都競馬場が左にある。

まもなく京阪電鉄の淀駅近くの高架下。

伏見の次の宿場、「淀」である。もうこのあたりは宇治川、木津川、が合流して淀川と名前を変える地点である。豊臣秀吉の側室淀の名前の由来ももちろんここであるが、淀城は今はない。

宿場への街道を通り、静かな住宅街。

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現在の淀駅より高い土地になっている。

用水のそばの「木津釈迦堂」でしばし休憩。

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再び歩き出すと犬を連れて散歩中のおばさんが、親切にもこの一帯に掘割や船着き場があったことを教えてくれる。

土手下の田畑を歩き、土手を登ると木津川、淀川の流れが見え始め、架け替えられたばかりの大きな「御幸橋」を渡ることとなる。

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渡り終えれば真向かいに見えるのは「石清水八幡宮」が鎮座まします男山。

この木津川の標識板のうしろが男山。

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社のある山頂近くまでケーブルカーに乗る。なんとなく東京の高尾山のような感じ。

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12時。お昼はケーブルカー駅(京阪では八幡駅)のそばで筍定食。

ここからはずっと淀川沿いに歩く。

まもなく樹齢1000年の楠。それが目印でもあるかのように、道は「橋本」に入ってゆく。

わたしとしては、今回の旅で最も興味を惹かれたのが、この橋本の小さな街並みである

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船着き場で賑わった時代は遊郭として栄えた街、今もなお、道路に面した庇の下には

欄間の彫り物が残る。格子窓は遊女たちが客引きした当時のままの風情。

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こここそ、誰にも知られずひっそりと消えゆく歴史の街並み。

町興しもせず、ガイドブックにも載らず、

歩いてみなければわからない閉ざされた秘密の空間である。

橋本を出て新興住宅地の連なる岡の上を歩く。ここから「樟葉」(くずは)まではまもなくのはずだが、道を90度ほど間違えてえらく遠回り。

樟葉の新しい駅前に到着。ここは京阪沿線では最も新しく開拓された街なのだろう。

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40階建てもあろうかというマンションが建てられショッピングモールも新設され、先ほどの

橋本も遊郭跡の静けさが嘘のようである。

さて、足の甲が痛くなってきたのでここから電車で枚方(ひらかた)まで乗る。

3時。枚方市駅に到着。

ホテルで荷物を下ろし、町興しとして整備された「京街道」の宿場通りを歩く。

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本陣跡、船宿旅籠の「鍵屋資料館」などをみる。「くらわんか舟」の河内弁のやりとりを

再現した資料モニターや川の恩恵を受けた宿場の様子などの文献が興味深かった。

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夜は駅付近でお好み焼きを食べる。

明日は、枚方~守口~大坂までを予定。

おまけ:樟葉からは大阪府。駅のエスカレーターを見て可笑しくなった。右側に人が止まっている。

やっぱり大阪からは、左側が追い越しラインなのだ^^!ちょっとしたカルチュアショック☆

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東海道五十七次まで。①山科~伏見

2012-05-02 22:02:11 | 東海道五十七次(京街道)

「旅」はそれ自体、たくさんの風景、歴史、人々とのかかわりを身をもって体験できる楽しさの横溢するものだが、旅に出かけるきっかけもまた意外なひょんなところからやってくるものである。

昨年大晦日に京都三条大橋に到着、五十三次を踏破したときに、先斗町の小料理屋の板前さんに「お客さん、東海道は五十七次までありますよ」と教えられた。

せっかく五十三次を終えたのに、さらに街道は続いていたということに驚愕!これはいつか歩いてみないと!と、心の中でひっそりと温存していた計画をこの連休を利用して果たす事が出来た。

五十七次の成立は豊臣秀吉の居城大阪から伏見まで淀川沿いに文禄堤を築いた事に始まり、大坂夏の陣で勝利した家康は、この文禄堤に伏見、淀、枚方(ひらかた)、守口、の四宿を設け東海道を大坂まで延長し全部で五十七次とせよ、と秀忠に命じる。家康は大名が京都へ寄って朝廷と接触するのを避け、京都の前宿である大津から山科の追分を経て京都に入らず南の伏見へと抜けさせる目論みであった。

なので、ふつう旅人が東海道を歩くときは京都がゴールであり、大きな大名行列は大坂高麗橋が基点となったらしい。

この街道を京街道、または大阪街道と呼ぶ。

4月29日(日)

東京→(新幹線)→京都→(京阪電鉄)→山科→徒歩→伏見宿(中書島)

11時。山科駅を降りると気温はぐんぐん上昇。行きかう人は殆ど半そでである。

本来なら大津まで戻って追分を伏見への道に入るが、そこは前回歩いているので山科から緑のビロードのような東山を眺めながらのどかな道を歩く。

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追分にいたる途中「車石」の遺構のある閑栖寺がみえる。あのときはもう一度この寺の前を歩いて通るとは思いもよらなかった。妙に懐かしい。

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↓ 追分道標。前回もここの前で写真を撮ったっけ。

前回はここを左に曲がらずにまっすぐ京都目指したのだったが今日は左へ。

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↑ 「右は京都」

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↑ 「左は伏見」

けっこう緩い上りである。京阪の高架下の公園で休んでいると、子供が「虹~!」

と叫ぶ。

空を見上げると、不思議なことに丸い虹でなく五線譜のように左右にまっすぐ広がる

薄い七色の光。

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相当暑くなってきた。

12時。ひときわ目立つ「山科けいさつ」の看板を右に眺めつつ歩き、「小野」町に着く。

駅手前の小さな商店街の大衆食堂で昼食。稲荷ずしとざる蕎麦を食べる。

このあたり一帯に名をとどろかせる勧修寺の前を通り、緩やかに山を越える。

京都の南をぐるっと大周りする道程である。

山は下り、やがて京都教育大学と並ぶ藤森神社。

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ここは勝運勝ち馬の霊験あらたかな神社。

こんな看板も。

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喉が渇いたので喫茶店でマンゴージュース、美味しかった☆

もう「墨染」(すみぞめ)である。

さて、せっかく京都を歩いているのだからと、ここから京阪に乗って伏見稲荷を詣でよう、

と話が決まる。(歩くほかはスケジュールを立てないのでどんな変更も可能^^)

伏見駅は、東京の柴又のような感じ。駅からお稲荷さんのキツネ一色。

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駅前の賑わいを越えると社殿の朱色が目に眩い。

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ここから何千本(何万本?)の寄贈鳥居が隙間もなく続く。

人がいなかったら異空間の参道。

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お稲荷さんで寄り道した後はまた墨染に戻り、伏見の宿へまっしぐら。

5時、宿に到着。

荷物を置いて近くを散策。

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濠川の流れと夕暮れ、大手筋の龍馬通りの左手にある寺田屋も歴史を感じさせる。

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右には「黄桜」酒造のギャラリー、庭で飲めるカッパカントリーを覗き見るのも楽しい。

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夕食は大手筋アーケードの串焼き屋で飲み、食べる。

当然ながら京都では大人も子供も女性も男性もみんな京都弁である。なんだかとろりとする感じ。

宿のっ部屋にはテレビはないが、総ヒバ造りの純和風風呂の香りに旅の疲れが抜けてゆく。

明日はここから枚方までを予定。