日本庭園こぼれ話

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旧東海道の宿場町・御油~赤坂

2014-08-03 | 古道

愛知県豊川市「御油(ごゆ)」は、江戸時代の東海道の宿場町。浜名湖の北岸を通る「姫街道」との分岐点であり、天保年間には、本陣二軒、問屋場一軒、旅籠62軒を数える、かなり大きな宿場だったとか。

御油と、その前後の吉田宿、赤坂宿は、東海道の中でも飯盛女で知られた宿場で、あの安藤広重の有名な『東海道五十三次』には、両側から強引に旅人を引き込もうとしている「旅人留女(とめおんな)」が、描かれています。

(上: 「御油・旅人留女」の図)

名鉄名古屋本線「御油駅」から、正面の国道を渡って少し行くと、突き当たりに音羽川。川沿いに歩いて五井橋を渡ると、そこが江戸時代の宿場町。

この御油と隣の赤阪は、旧東海道筋で最も昔の姿を留めていると言われ、宿場の賑わいこそ、今はありませんが、カーブした道の向こうから、お馴染み『東海道中膝栗毛』の弥次さん、喜多さんが、ひょいと現れそうな雰囲気を持っています。

(上:御油の家並み)

しばらく先に進むと、やがて前方に、整然と空に伸びた松の木々が見えてきます。足元に「天然記念物 御油の松並木」の石碑があり、ここから500m余りにわたって、松並木が続きます。

慶長9年(1604)、徳川幕府によって、主要街道に並木を植えることが定められ、ここには650本の三河黒松が植樹されました。往来する旅人たちが、夏は緑の木陰で日差しを遮り、冬は寒い風や雪を防ぐように、あるいは快い松風の音で安らぎを得られるように・・・。

この松並木、数は半減してしまったそうですが、住民のボランティアや愛護会の手によって、管理・補植がなされているそうで、根元の土手も原形を留めながら、江戸の街道の姿を今に伝える貴重な並木道です。

弥次さんが、相棒の喜多さんを狐と間違えて、取り押さえたという笑い話も、この松並木での出来事でした。

宿場の入口近くにある「松並木資料館」のエントランスには、亀甲模様のついた巨大な松の根っこがシンボルとして置かれています。

松並木を抜けると赤坂宿。御油と赤坂の間は、わずか1.7㎞で、これは東海道五十三次の宿場の中で、最も短い距離だとか。松並木のはずれに、クスノキの大木のある関川神社(下の写真)があり、そこには、松尾芭蕉の「夏の月 御油よりいでて 赤坂や」の句碑があります。これは、夏の夜は短くて、月の出ている時間が短いことと、御油~赤坂間の距離の短いことを、重ねたものと言われています。

赤坂宿のハイライトは、「大橋屋」。当時の旅籠の姿を留めた、現役の旅館です。建物は江戸時代中期、1715年頃のものだそうですが、二階の格子の意匠など、意外にモダンな外観です。

(上: 時の流れが止まったかのような外観を見せる大橋屋)

広重の『赤坂・旅舎招婦図』は、この大橋屋を描いたものと言われ、近くの浄泉寺の境内にある大蘇鉄は、この図の中庭にある蘇鉄を移植したものと伝わっています。

(上: 「赤坂・旅舎招婦図」

(上: 浄泉寺の蘇鉄)

御油~赤坂の旧東海道筋は、旧態を良く残しているとされながらも、都市化が進み、決して満足のいく姿ではありませんでした。しかし、断片的に残る家並みや、松並木、道ばたの小さな石碑などなど、それらに広重の『東海道五十三次』や、弥次喜多の道中記のエピソードがオーバーラップして、実像よりもずっと大きなイメージが広がるような気がしました。

 

なお、御油から江戸方面に、二宿戻った「二川宿」には、旧本陣を改装した豪壮な資料館「二川宿本陣資料館」があり、江戸時代の本陣の建物と東海道の宿場をテーマにした展示を見学することができます。

 (上: 旧東海道の本陣の豪壮な建築に驚かされる資料館)

 


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