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松島・霊場の記憶を留める景勝地②「瑞厳寺」・「円通寺」---宮城県(再編)

2020-08-01 | 霊場

瑞厳寺は、寺伝によれば、平安時代初め(826)、慈覚大師円仁により開創された奥州一の禅寺(当時は、延福寺と称した)。室町時代までは大いに繁栄したものの、戦国時代に寺勢が衰え、現在の大伽藍が再興されたのは、江戸時代初期、伊達政宗によってでした。

(上: 杉の古木が立ち並ぶ厳かな参道)

工事は慶長9年(1604)に始まり、ヒノキ、スギ、ケヤキの良材を熊野山から取り寄せ、諸国から名工130人を集め、5年がかりで完成させたとあります。

(上: 本堂は重厚かつ荘厳)

本堂(国宝)は、正面の幅39メートル、奥行き25メートル、入母屋造り、本瓦葺き。10室の部屋で構成され、京都・根来の大工衆が技を競ったというもの。その荘厳な建築美とともに、内部の欄間の彫刻の緻密さや、障壁画の絢爛豪華に圧倒されます。

これら障壁画は、歳月を経て劣化したため、近年、保存修理が行われ、芭蕉が「金壁荘厳光を輝し」と感動した旧の姿を取り戻したものです。

瑞厳寺では、本堂に付属する御成玄関、回廊、庫裡もまた国宝に指定されています。庫裡の白壁と木組のコントラストは、印象的な美しさでした。

(上: 白壁と木組のコントラストが美しい回廊と庫裡)

帰り道、参道を迂回する歩道を進むと、ここにも雄島で見たような岩窟がたくさん並んでいました。崖の壁面に洞窟を掘り、仏像などを彫り込んだもので、やはり修行の場、瞑想の場であったとか。

(上: 瑞厳寺の岩窟群)

瑞巌寺の中門を出たすぐ右手にあるのは、やはり伊達家ゆかりの「円通院」。二代藩主の次男・光宗の廟所です。19歳という若さで、江戸城で亡くなった光宗の死因については、彼の文武両道に優れた名君としての資質を、徳川幕府が恐れ、毒殺したという説が伝わっています。

山門をくぐると、手入れの行き届いた境内は、様式の異なるいくつかの庭園で構成された回遊式庭園のようです。山門脇の庭は、白砂の中に松島湾に実在する七福神の島を表したという石庭(下の写真)。

そこから苔の中の小径を直進すると、突き当たりが御霊屋の「三慧殿」。光宗の父・忠宗によって建立されたもので、外観は質素なお堂ですが、中には金色の光を放つ豪華な厨子が安置されています。

(上: 歴史の1ページを秘めた三慧殿)

特徴的なのは、その厨子に描かれた文様。西洋バラ、ダイヤ模様、ハート模様。そして葵の紋にも見えるスペード模様。あるいは菱形模様に似せた「クロスつなぎ」などで、それらは、伊達政宗の命により、遣欧使節としてヨーロッパに渡った、支倉常長によって、もたらされた西欧文化を色濃く反映したもの。

そのため、鎖国制度下にあった当時は、人目に触れることなく、3世紀半もの間、御霊屋の中に秘蔵されていたということです。

そこから本堂に続く小径を辿って行くと、ここにも裏山の崖に岩窟が並び、鎌倉の「やぐら」を思い出します。

(上: 明るい寺域とは対照的に、厳かな雰囲気を醸し出す岩窟)

さらに進むと、前面は明るい杉林で、足元は苔。ところどころに山野草が可憐な花を咲かせています。そこを過ぎると、寺院には珍しいバラ園。これは厨子に描かれたバラに因んだものだそうです。

(上: 杉林と苔と山野草で構成された自然風の庭)

そして本堂に至ります。光宗の江戸での納涼亭を移築したもので、寄棟造り、茅葺き屋根の建物。心字池のある前庭は、伊達藩江戸屋敷にあった小堀遠州の庭を移設したものと伝わるそうですが、真偽はともかく、風雅な本堂と相まって、景趣豊かな雰囲気。

(回遊式庭園のような境内の景とよく調和している風雅な本堂=上と、その前庭=下)

瑞厳寺の男性的な豪壮さとは対照的に、円通院では女性的な、心安らぐ空間が創り出されています。

・・・つづく・・・

 

 


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