日本庭園こぼれ話

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松島・霊場の記憶を留める景勝地①「雄島」・「観瀾亭」---宮城県(再編)

2020-07-27 | 霊場

松島とは、宮城県の松島湾内に点在する大小260余りの島々のこと。近年は、白神山地や奥入瀬渓流、平泉などに、東北観光の主役の座を奪われている感がありますが、古くから「丹後の天橋立」「安芸の宮島」と並んで、日本三景の一つに数えられている「陸奥の松島」。

松島観光の玄関口は、仙台から仙石線で約30分の松島海岸駅。駅構内の観光案内所で散策マップをもらって、まずは正面に広がる海を眺めに行きます。

海に浮かぶ島々が、緑の松で覆われているのを確認して一安心。というのは、以前、松島の松が害虫被害のため、枯死が目立つという話を聞いていたからです。

磯の香りを心地良く感じながら、右手に目を移すと、朱塗りの橋・渡月橋で結ばれた小島があり、それが「雄島」。

 

中世の松島は「北国の霊場」として知られ、多くの僧たちが修行のために、この島にやって来たとのこと。中で最も有名なのが、平安時代末期(1104年)に、伯耆の国から雄島に入った見仏上人。

見仏上人は、12年間、一歩も島を出ることなく法華経を読誦、法力を得たそうで、時の鳥羽天皇がその偉業を讃え、松の苗木1、000本を下賜されたことにより、雄島は「千松島」と呼ばれるようになり、それが転じて、この地一帯が「松島」となったという、いわば、地名発祥の島です。

渡月橋を渡って島に至ると、まず目に入るのが夥しい数の岩窟。修行僧の座禅、瞑想の場であり、死者の浄土往生を祈念した場所とも言われ、卒塔婆や石仏、五輪塔などが納められています。

岩窟に沿いながら左手に向かうと短いトンネル。修行僧が岩を削って作ったとあり、岩盤に鑿跡が無数に残っています。

トンネルを抜けると、周囲の崖の壁面に、何層にもなって岩窟が彫られた空間に出ます。そこは見仏上人が修行した見仏堂の跡地ということで、奥の院と呼ばれるその場所(下の写真)は、木々に覆われ、曇り空も手伝って薄暗く、あたかも霊気が漂っているような雰囲気。

ここまで足を延ばす観光客は少ないようで、あたりはひっそり。島内には他にも、侘びた堂や庵や句碑が点在し、雄島に来たことで、松島の霊場としての歴史が強く印象づけられたことでした。

次に、雄島から海岸沿いに歩いて「観瀾亭(かんらんてい)」へ。

この建物は、伊達政宗が豊臣秀吉から拝領した伏見桃山城の一棟で、江戸品川の藩邸に移築したものを、二代藩主・忠宗が、納涼、観月の亭にするため、一木一石も変えずに、この地に移したと伝わっています。

建物は横に長い平屋で、海に面して縁をめぐらせた簡素な外観ですが、部屋の床の間や襖には、金泊に極彩色の絵が描かれ豪華。「観瀾」とは、「さざ波を観る」という意味で、高台にあるので、眼下に広がる松島湾の景はまた格別。

(上: 眼下に松島湾の眺望が広がる「観瀾亭」)

芭蕉が松島を訪れた際に、あまりの絶景に句が浮かばす、「松島や ああ松島や 松島や」と詠んだという逸話は、あまりにも有名ですが、これは誤伝だそうです。オリジナルは、江戸後期の狂歌師・田原坊の作とか。

もっとも芭蕉が、待望の絶景に感激して、句を詠むどころではなかったのは事実らしく、『おくのほそ道』の松島における一文には、「待望の絶景に接して、もはや句を詠むどころではなく、句作を断念して、さて眠ろうとしても感激のあまり眠ることができない」という心境が綴られています。

しかし、江戸を立つ時には、「松島の月まづ心にかかりて」と、特別な思いを抱いていた松島なのに、一句も詠まずに通過していることから、芭蕉隠密説が生まれたりもしています。つまりこの旅の目的は、仙台藩の情勢を探るためのものだったというわけです。

しかも、同行の曾良による『曾良日記』には、仙台藩の軍事要塞といわれる瑞厳寺や藩の商業港・石巻港を執拗に見物したことが記されているそうで・・・・。なかなか興味深いことです。

(上: 奥州随一の禅寺・瑞厳寺。伊達政宗によって再建された大伽藍は、荘厳かつ豪華)

その瑞厳寺については、次回に・・・。

---つづく---

 

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