太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

私の出会った有名人

2015-06-07 09:22:56 | 仕事に関すること

 もう40年くらい前の話だが、勤務先が奈良にあった。飲み会の帰りに酔いざましのため駅前の喫喫茶店に入った。仲間は10人くらいいたが、かなり広い喫茶店でカウンターを囲むように30名くらいが見渡せる席数である。そこへ男二人、かなり綺麗な若い女の人の3人連れが入ってきた。一人は頬骨が見えるくらいのはかなりやせ形で、頭は坊主に近い短髪である。何の拍子か私がその男をからかう(弱い酒にちょっと酔いもあった)ようになり、このやせ男がそれを返す。丁度漫才のボケとつっこみ風。私がつっこみだが、この男のボケがその間(ま)といい実に面白い。カウンターの中のマスターだけでなく他の客も皆振り返り大笑い、喫茶店は演芸場化した。2時間近く続いたが、マスターにお騒がせしましたと言うと「楽しませて貰いました」と言われた。やせ形の彼には「芸能人になった方が良いのでは」と言って別れた。数日も立たない内に会社の仲間から「この前の喫茶店の男は明石屋さんまという落語家で11PMに出てた。」と言ってきた。さらに数日後出張帰りの電車の向かいの席に彼が座っており、とことこと近づいてきて「この前の喫茶店のだんな、しかし今日はえらいエリートでんなあと私のスーツ姿を見て。私警察署の近くの乾物屋が実家でんえねん、ほな失礼します。」とすと降りて行った。素人を弄り、絶妙の間で笑いをとる芸風は昔のままである。

 話の間(ま)についてはもう一人。勤めていた会社のカリスマ創業者で、今でもそうだが太陽光発電が大好きで、私のような若い者も度々話を聞く機会があった。晩年は中小経営者を集めて講話をしたり、私自身も太陽光発電関連ではスピーチ原稿の手助けやら、わけのわからない客人相手に同席したり、かなり接点があった。その中で30年以上感じてきたことは、話の間(ま)が古典落語の名人のように絶妙であることだ。次何を言うだろうとこちらが一瞬耳を済ますと同時に次が出る。こちらはどんどん話の魅力に引き込まれる。声音や抑揚、これも生まれ持ったもので計算でできるものではないだろう。昨日までアンチだった人が会うとファンになる例は沢山見てきた。カリスマというのは人間性が(自然と)発露し、しかも人を引き付ける魅力がなければなれるものではない。経営者として数字だけではカリスマになれない。

 営業マンの話もしかりである。私自身も口が上手いから営業もできるのでは、とよく言われた。しかし、事実は逆であった。社内のプレゼンでも多くの上司から【お前の言うことはよく解る。しかし何か騙されているような気がする。】としばしば言われた。考えてみると立て板に水が如く商品説明をする営業マンが必ずしも良い成績は挙げていない。これは上司と同じく、なんか騙されているのではないか、という警戒感が相手に芽生えるのだろう。むしろ口下手だが真心が相手に伝わる朴訥な営業マンが世の中良い成績を上げている。

 カリスマ経営者から聞いたことで【人に話をするというのは物凄いエネルギーを使う。話終わったらへとへとになる。言霊(ことだま)というように、言葉自身にエネルギーを込め無ければ伝わらない。】と。あれほど先見性があり、知恵も経験もあり話上手ならさらりとやってのけていると思っていたのは大間違いだった。小人ながら巧言派の私でも講演会で喋る前は「えらい元気ないなあ」と言われるくらい無口になる。エネルギー消費がこの段階から始まっているのかも知れない。本当は喋る、書くということに費やすエネルギーは歳とともに増す。もうこんな軽く無責任にものを書いてはいけないのだが・・・。

 



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