パオと高床

あこがれの移動と定住

井本元義『太陽を灼いた青年』(書肆侃侃房 2019年10月20日刊)

2019-11-04 12:37:07 | 国内・エッセイ・評論

井本元義さんが、圧倒的な情熱でたずね歩いたランボーの軌跡。その追跡が一冊になった。
井本さんには、本書でも引用しているようにランボーを描いた小説がある。
それは迫力があり、面白かったのだが、どこかで、小説ではない形で、いつかランボーに
ついて書くのではないだろうかという気がしていた。積年の彼のランボーとの関わりが
直截な形式となって著されたのが本書だ。

ランボーに出会う。出会って素通りできる人はいい。
だが、取り憑かれてしまうとランボーは始末におえない。
なぜか。
ランボーは何も要求しないくせに、取り憑かれた者にはランボーが何かを求めているような声が
聞こえてくるのだ。そして、まるで彼が創作を要請しているような気がして、それに答えようと
して創作に向かおうとすると、あるいは創作すると、ふん、創作なんてと言い返してくるような、
そんな、彼が言わない声が聞こえてしまう。そんな永遠に続く運動の、生活の、創造の、宿命。
それに出会ったしまう。
ああ、これでもまだ微温的なのかもしれない。
ランボーに出会ってしまい、そこから目を離せなくなった者は、すでにそこでランボーに魅入ら
れた者かもしれない。そして、いつかランボーを見つめるまなざしは、ランボーが見つめるまな
ざしと並んで彼が見つめたものを見つめようとする。そのためには、彼がそこにいた全てを体感
しなければならない。そう、「酔いどれ船」に乗って「地獄の季節」を経巡らなければならない。
井本さんは旅に出る。ランボーを求めて。それは、ランボーを探しながら、何かを探し、何かを
見つめたランボーになろうとする旅なのかもしれない。もちろん、おのれ自身がランボーになる
なんて不遜なことは思わない。ただ、井本さんは、ランボーが、そこにいて、生きて、つまり、
見つめて、聞いて、感じて、考えた、すべてを、そして、彼がそこにいたことで、今でも宿って
いるだろう彼の気配をたぐり寄せようとする。
その結実した果実のひとつが、この『太陽を灼いた青年』だ。

ランボーの移動した人生の距離、それは、故郷の家族、特に母と妹であったり、ヴェルレーヌと
の彷徨であったり、パリコミューンへの参加であったりする。そして、詩を捨てて渡ったアフリ
カでの日々であり、死を迎えるまでの帰郷してからの時間である。著者はそれを追う。まるで、
その移動が自らの人生の距離であるかのように。そして、ことばが、一冊の本になる。読者はそ
こで、出会いを経験する。

著者が訳したランボーの詩を小林秀雄や粟津則雄の訳と比べてみるのも楽しかった。
コメント
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