パオと高床

あこがれの移動と定住

堀江敏幸『熊の敷石』(講談社)

2010-04-03 09:31:22 | 国内・小説
以前、途中で読みやめたのはどうしてだったのだろう。今回、知人にすすめられて、読んでみるとよかった。前回も、つまらなくて読みやめたというより、何か他の本のほうに行っちゃったような気がする。と、いうことは、その、他の、本に興味が向かったということなのだが。

読点がつないでいく文体に、独特の含蓄があって、静けさが、心のもどかしさを伝えてくるようだ。

相手にとってのベストの僕にはなれないのかもしれない。いや、それどころか、相手にとっての僕とは、すれ違いながら、知らないうちに傷を負わせてしまっている存在なのかもしれない。そんな自他の関係が静かに語られる。

「彼の言いたいことは、それこそ『なんとなく』わかるような気がした。私は他人と交わるとき、その人物と『なんとなく』という感覚に基づく相互の理解が得られるか否かを判断し、呼吸があわなかった場合には、おそらくは自分にとって本当に必要な人間ではないとして、徐々に遠ざけてしまうのがつねだった。」

「なんとなく」という関係の中で、つながりを持つ。そして、

「ながくつきあっている連中と共有しているのは、社会的な地位や利害関係とは縁のない、ちょうど宮沢賢治のホモイが取り逃がした貝の火みたいな、それじたい触ることのできない距離を要請するかすかな炎みたいなもので、国籍や年齢や性別には収まらないそうした理解の火はふいに現われ、持続するときは持続し、消えるときは消える」

ものなのかもしれない。距離が、ボクらを規定して、自分を相手の前に自分として立たせている。当然、

「公の悲しみなんてありうるのだろうか、とヤンの言葉を耳に入れながら私は思っていた。悲しみなんて、ひとりひとりが耐えるほかないものではないのか。本当の意味で公の怒りがないのとおなじで、怒りや悲しみを不特定多数の同胞と分かち合うなんてある意味で美しい幻想にすぎない。痛みはまず個にとどまってこそ具体化するものなのだ。」

である。しかし、この文体の背後にはすでにこういった表現の持つ悲しみのようなものが漂っている。
主人公の「私」は、そう考えながらも実は、友人ヤンの語るヤンの存在の持つ重さにさらされている。もちろん彼は、そのこととの距離を保とうとしている。だが、「いらぬお節介」という意味を持つラ・フォンテーヌの「熊の敷石」の『寓話』に出会ったとき、「無知な友人ほど危険なものはない」との教訓に、「私」は自分がヤンにとってそんな存在だったのではないかと思い至る。

「話す必要のないことを『なんとなく』相手に話させて、傷をあれこれさらけ出させるような輩は、素知らぬ顔の冷淡な他人よりも危険な存在なのではないだろうか。ヤンとのあいだに、いまも小さな貝の火を共有しているという想いが私にはある。ヤンのほうでもそれに似たような譬え話をしてくれたことがあるから、こちらの存在が鬱陶しさや不快感を催させているわけではないだろう。だがあれこれ思い返してみると、私たちの会話は、日常のくだらない話以上に、『なんとなく』胸につかえるような話題をめぐって言葉が費やされることのほうが多かった。」

そして、「私」はヤンに対して、自分が、

「投げるべきものを取りちがえているのではないか、と。」

思う。
僕の前に現れる他者の他者性。それは、常に背中だけを向けていくのか。了解しえない領域から不意に現れる他者。自分自身を投影し、自らの距離でのみ判断しうる相手ではなく、そんな自己投影を拒んで在る他者。引き受けえない存在によって知らされるのは「取り返しのつかない時間」と責任に対する傷の実感なのだろうか。他者が顔を持つ、その顔の現れる刹那を自分の時間のなかで描き出そうとしている小説のように感じた。
この「私」の全身を貫く痛みの先に、この痛みの持つ実質が問われるのかもしれない。
また、常に遅れてやって来る認識。小説は、それによってもたらされるコミュニケーションの限界を語りかけているのだろう。

熊の道の夢、モン・サン・ミシェルとの出会いの場面やカトリーヌとダヴィドという母と子などの配置も効いている。

この小説をすすめてくれた知人に感謝。

読後、須賀敦子さんの凛とした文章をまた読んでみたいとも思った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする