パオと高床

あこがれの移動と定住

田村隆一『四千の日と夜』(1)

2011-10-24 14:51:15 | 詩・戯曲その他
2009年12月に書いた文章である。今回の田村隆一で過去に書いた文章をアップするのは最後にしようかとも思っている。


始点としての『四千の日と夜』
             
 風の出自をたずねる。
 例えば、佐々木幹郎は、トークライブで語っていた。ヒマラヤ山脈にぶつかるアジアモンスーンと、それによって発生する上昇気流が引き起こす壮大な風の動きのことを。彼は、風を見ていた。そのただ中に立っていた。その話を聞けば、あこがれが宿る。僕らの存在は風になびく。ただ、今は、微風がいい。宇宙からの視点で見ることができる、この惑星を覆う風の動きは、映像の中だけにして、今は、微風の中にいたい。
 と、思いながら、風の出自をたずねる。
 その風は、ある空虚から吹き上がってくるのか。心に空いた井戸から吹き上がる風か。第二次世界大戦という、人類が自ら露呈させた「野蛮」の経験によって、言葉は、「戦後」を生きるための始点を必要とした。その切っ先に、田村隆一がいた。田村隆一はその詩「腐刻画」に刻みつけた言葉のように「深夜から未明に導かれてゆく近代の懸崖」を屹立させた。その「懸崖」から、風が吹く。

   ○

 戦後詩の始まりを告げたといわれる詩集『四千の日と夜』の鮮烈な詩群の中で、まず、「幻を見る人」に引きつけられる。

 空から小鳥が墜ちてくる
 誰もいない所で射殺された一羽の小鳥のために
 野はある

 窓から叫びが聴えてくる
 誰もいない部屋で射殺されたひとつの叫びのために
 世界はある

 この立ち止まる感じは何だろう。論理が宙づりになっている。「野」があって「小鳥」がいるのではない。「小鳥」がいて「野」があるのだ。世界はそこにあるものの内面で現象化されている。ひとつの存在によって、「空」と「野」は存在を認識される。ところが、ここに静止の圧力が加わっているのだ。「小鳥」は「射殺された」「小鳥」であって、ここでは実存空間は閉じられている。にもかかわらず、「野」は「小鳥」との関係の上に存在する。「幻」としてつかみ取られた直感が、論理の文体を獲得して、一気に呈示される。舞い上がるのであれば、「空」があればいい。だが、二度と舞い上がることのない「小鳥」には「野」が必要となる。
 では、二連の「窓」と「叫び」はどうなるのか。ここでは、一連の「空」と「野」の位置関係が「窓」と「世界」の位置関係と対比され、「小鳥」の位置が「叫び」と呼応する。すると「叫び」の内部に「世界」が封じられるのではないのだろうか。と同時に、「野」に「小鳥」がいる視覚イメージと対応して、「世界」に「叫び」が満ちている聴覚のイメージが表れる。だが、これも、「誰もいない」ところで「射殺された」ものなのだ。そして、この「射殺された」という強い言葉が、作者の意図通りに、他の言葉を凍結させている。視覚も聴覚も、実は遮断されているのだ。
 ところが、言葉はそれでも息づいてしまう。例えば、沈黙という言葉にも、それ自体の音があるように。すると、この二つの連は次のようにも読める。実体を射殺するということが、そのまま言葉化する行為ということにつながるのではないかという読みだ。「小鳥」という実体を射殺することで、「小鳥」という言葉になった「小鳥」が「野」に残る。では、「野」は何か。それが詩という場になる。「空」という立体の、実体の広がりから、言葉となった「小鳥」は紙面という詩の場に落下する。その「小鳥」のために「野」はあるのだ。では、「叫び」はどうだろう。同様に、「叫び」の実体も「射殺され」て、言葉としての「叫び」になり、世界から詩が築きあげる「世界」に移る。その、「叫び」のために「世界はある」のだ。この二つは、視覚、聴覚の両方に向けた詩における言語化の道筋を示している。そう考えると、田村隆一は、その実体と言葉という二重性を「小鳥」や「叫び」という言葉に込めていることになる。指示するものとされるものを言葉と実体とに分離させながら、尖鋭に問題として突出させているのだ。この二重性は、後述するが、「四千の日と夜」という詩の中の「一篇の詩が生れるためには、/われわれは殺さなければならない」という詩句に見られるように、「一篇の詩が生れるためには」と書き、しかも「殺さなければならない」と書く逆説と通底し、第二詩集の『言葉のない世界』を言葉で記述するということにもつながる、田村隆一の詩的方法のひとつでもある。
 彼は、エッセイ「肉体は悲しい」で「〈詩は言葉でつくられる〉この自明の原理を銘記してほしい。そして、観念や感情がくっきりとした形となって生れるのは、詩という構築物によってである」と書いているが、そうであればこそ、言葉は言葉の世界に至って、言葉に宿るものを自白するのだ。

   ○

 読者は、この二つの連で、時間の停止に直面する。そして、三連で、前の連の関係が論理的な文体で解読される。

 空は小鳥のためにあり 小鳥は空からしか墜ちてこない
 窓は叫びのためにあり 叫びは窓からしか聴えてこない

 詩の内部で、自らの記述した先行する連への明晰な確証が行われる。詩人は自身への省察と批判を、記述と同時に行っていく。しかも、「空」と「窓」。この単語は開放と閉塞を同時にもたらしてくる。詩の中で対峙されるべきものが関係として記述されている。「空」の広がりは「小鳥」のためにあるのだが、「小鳥」は墜落するものとして捉えられ、墜落によって「空」を認識する。一方、「窓」は閉ざされた内部を持ち、それが開かれることによって、「叫び」は外に溢れ出す。「叫び」は閉塞された抑圧の中にあり、それによって「窓」が逆に認識される。ところが、ここでそのことへの理解を突き放し、それへの直感を全的に告げる詩句が現れる。

 どうしてそうなのかわたしには分らない
 ただどうしてそうなのかをわたしは感じる

 この詩句にいく距離は相当に近い。一瞬の短絡が詩を跳ばせている。もう一連、あるいは一フレーズあってもいいような気がするのだが、そこに大いなる削除の跡が残る。そして、詩句はまた、一気に「小鳥」と「叫び」に戻る。論理的言質に戻る。

 小鳥が墜ちてくるからには高さがあるわけだ 閉されたものがあるわけ
  だ
 叫びが聴えてくるからには

 倒置法が効いている。「小鳥」の墜落には「高さ」が、「叫び」の聴覚には閉塞が、必要となる。対句を崩して倒置にする。「高さ」と「閉ざされた」の連続が、田村隆一の思想の場を想起させるようだ。後に、第二詩集『言葉のない世界』の標題詩で「言葉のない世界は真昼の球体だ/おれは垂直的人間/言葉のない世界は正午の詩の世界だ/おれは水平的人間にとどまることはできない」と書くことになる、垂直への意志と水平への拒絶が、そして、時代精神としての墜落と閉塞が、想起できる。
 もちろん戦後の開放があるはずだろうが、詩人は当然として、脳天気に開放を歌う詩人ではないのだ。むしろ詩集名の『四千の日と夜』が示すように戦後十年の精神史的風景がある。例えば、それは、大岡信が『詩をよむ鍵』の中で、「私は一九四五年に十四歳だったが、それから数年後には、われわれが今生きている時代はすでに第二次大戦の〈戦後〉ではなく、第三次大戦の〈戦前〉だという実感と不安をはっきりもっていたことを、明らかに思い出すことができる」と述懐しながら、朝鮮半島の紛争など多くの新たな紛争が生じる中、「以上のような諸要素が、日本の〈戦後詩〉をとり巻いていた状況の主なものだった。当然、ここでは戦争体験、飢餓、原爆などとの関係において、詩人たちの発想の中核に死のイメージが頻繁に現れることになる」時代であり、「全体性の回復」への「希求」を理由として、「感覚を思想の次元に転移させ、思想を感覚の次元で具象化することに、戦前の詩とは比較にならないほど意識的になった」時代であると概観した状況の精神史的風景である。
 それは、次の連につながる。

 野のなかに小鳥の屍骸があるように わたしの頭のなかは死でいっぱい
  だ
 わたしの頭のなかに死があるように 世界中の窓という窓には誰もい
  ない

 死のイメージが「死でいっぱいだ」という言葉そのままで投げ出されている。「野のなかに」墜ちたのは「射殺された一羽の小鳥」であるならば、この「小鳥の屍骸」は一羽なのだろうか。しかし、その一羽の「小鳥の屍骸」が、一気に「わたしの頭のなか」のいっぱいの死に結びつく。脳裏には夥しい死がある。一羽の小鳥の単なる死から、一羽としての実存的な死、さらには「野」を規定する一羽の死から、「野のなかに小鳥の屍骸がある」という「野」と「小鳥」の関係の第一連からの異動を考えてみれば、「野」に飲み込まれた「小鳥の屍骸」という存在のちっぽけさへの転換までも読み取れる。その死が頭のなかに「いっぱい」なのだ。そして、死は死の実体から離れて頭のなかの想念になりながら、同様に「世界中の窓という窓には誰もいない」。「窓」から「叫び」をあげた主体が消えている。つまり「射殺された」叫びと呼応している。窓に向けて叫んだ人は、すでにいなくなっている。そこには、また夥しい死がある。詩人の「頭のなか」を「いっぱい」にした死がある。
 ここで、突然、あるイメージに立ち至る。この「叫び」と「窓」が持つ具体的なイメージだ。これは棺ではないのだろうか。棺には死体の顔をうかがうための窓がある。その窓が死体の叫びを引き出す窓なのではないだろうか。この「窓」と、棺としての「部屋」は、「叫び」と「窓」が記述されている詩句を明確に造形化する。「叫び」の主体が死者であることが読みとれるのだ。であれば、「窓という窓には誰もいない」という言葉が、死者を呼び戻す一切が奪われた状況と感じられる。消えてしまった死体。記憶が掻き消していく存在。それは、「誰もいない」という言葉によって、いたはずであるということが、いたのだということが、その存在の重さを持って存在していたのだということが、実は、伝達されるのだ。棺の空虚。このイメージは、叫びの凍結と同等に鮮烈である。
 さらに、「誰もいない」にこだわってしまう。この「誰もいない」には、言葉が実体を離れて、言葉として抽象を生きる姿も描き出されているように思う。言葉は不在も有在化する。だが、言葉は、言葉の背後に不在を抱えている。空虚は「懸崖」に言葉を屹立させるのだ。そして、詩人は「叫び」の「窓」から、おのれ自身出かけていく。いやむしろ、この当時、「垂直」をめざしている詩人であることを考えれば、出かけていくのではなく、下りていくのかもしれない。
 もうひとつ、この部分から感じとれることがある。それは、内在化という言葉で表せるような感じだろうか。「わたしの頭のなか」への内在化を通してしか存在を存在たらしめないという意志が、ここにはあるのではないだろうか。この「誰もいない」という言葉から沁みだしてくる他者性の拒否が、内部への取り込みの覚悟のようなものとしてある。それは、関係づけへの孤独な意志とでも呼べるのかもしれない。連帯することで他者性をなくし、自己との一体化を図るのではなく、孤独であることの覚悟によって世界を内部に取り込もうとする、そんな世界との関係の結び方があるのだ。「一羽の小鳥」や「ひとつの叫び」という単数表示が効いている。そして、それを果たせない外部は、聞こえない何物かとして逸脱する。その冷徹なまなざしが、世界との関係の逼迫した緊張感を生み出す。流れるように同化してしまうことへの拒絶。そう、ここにも「懸崖」の光景が見える。
 「幻を見る人」は四編の詩を、この題名の下に四つの節に分けて一編の詩にしている。その第一節はこうして閉じられる。
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