長田弘が死んでしまった。
詩集『深呼吸の必要』から「原っぱ」全篇。
原っぱには、何もなかった。ブランコも、
遊動円木もなかった。ベンチもなかった。一
本の木もなかったから、木陰もなかった。激
しい雨が降ると、そこにもここにも、おおき
な水溜まりができた。原っぱのへりは、いつ
もぼうぼうの草むらだった。
きみがはじめてトカゲをみたのは、原っぱ
の草むらだ。はじめてカミキリムシをつかま
えたのも。きみは原っぱで、自転車に乗るこ
とをおぼえた。野球をおぼえた。はじめて口
惜し泣きした。春に、タンポポがいっせいに
空飛ぶのをみたのも、夏に、はじめてアンタ
レスという名の星をおぼえたのも、原っぱだ。
冬の風にはじめて大凧を揚げたのも。原っぱ
は、いまはもうなくなってしまった。
原っぱには、何もなかったのだ。けれども、
誰のものでもなかった何もない原っぱには、
ほかのどこにもないものがあった。きみの自
由が。
何もないものに、言葉が、そのないものを刻むことで、それを存在させる。ただ、そこには
何もない空間に息づいた人の営み、生があり、そこが静かに満ちていくことで、刻まれた時
間と失った何ものかがある。その不在。でも、そこにはカンバスのように広がる自由があっ
たのであり、その何もなさの中で培って、得てきた言葉があったのだ。それを指し示すのも
言葉であり、そこに至れない言葉の世界がある。そのただ中に立つことの痛さも含めたいと
おしさ。
『われら新鮮な旅人』で、「われら」から始まった詩の世界は「きみ」に出会い、「きみ」
への呼びかけに移っていく多くの無名のぼくらの世界になり、ぼくは「きみ」へ語りかける。
ぼくのようにきみの生があり、それはどちらもささやかだが、かけがえがなく、かけがえの
なさは特権的なものではなく、そして、そこには生きた場所があって、だから死の場所もそ
こにとどまり続ける。
ごくささやかなもの、むなしいけれど、むなし
さにあたいするだけのいくらかの、ひそかな希
望を質すための。 (「初詣」一部)
そして、『詩ふたつ』から「花を持って、会いにゆく」冒頭から途中まで。
春の日、あなたに会いにゆく。
あなたは、なくなった人である。
どこにもいない人である。
どこにもいない人に会いにゆく。
きれいな水と、
きれいな花を、手に持って。
どこにもいない?
違うと、なくなった人は言う。
どこにもいないのではない。
どこにもゆかないのだ。
いつも、ここにいる。
歩くことは、しなくなった。
歩くことをやめて、
はじめて知ったことがある。
歩くことは、ここではないどこかへ、
遠いどこかへ、遠くへ、遠くへ、
どんどんゆくことだと、そう思っていた。
そうでないということに気づいたのは、
死んでからだった。もう、
どこにもゆかないし、
どんな遠くへゆくこともない。
そうと知ったときに、
じぶんの、いま、いる、
ここが、じぶんんおゆきついた、
いちばん遠い場所であることに気づいた。
この世からいちばん遠い場所が、
ほんとうは、この世に
いちばん近い場所だということに。
生きるとは、年をとるということだ。
死んだら、年をとらないのだ。
この詩では、このあと次のような連も現れる。
死ではなく、その人が
じぶんのなかにのこしていった
たしかな記憶を、わたしは信じる。
ことばって、何だと思う?
けっしてことばにできない思いが、
ここにあると指さすのが、ことばだ。
多くの人々の生を著作、場所、語り、自身の経験の中で引き受けていきながら、それらが言葉
となって言葉の限界までも静かに告げた。そんな長田弘が、大きな存在となって、しかも空気
のようにあたりに漂う。残された詩が、言葉が、語りかけを待っているような。
しっかり握りなおす、神さまがここにわすれてい
った古い鉄棒を、きみは世界の心棒のように。
(『深呼吸の必要』から「鉄棒」一部)
詩集『深呼吸の必要』から「原っぱ」全篇。
原っぱには、何もなかった。ブランコも、
遊動円木もなかった。ベンチもなかった。一
本の木もなかったから、木陰もなかった。激
しい雨が降ると、そこにもここにも、おおき
な水溜まりができた。原っぱのへりは、いつ
もぼうぼうの草むらだった。
きみがはじめてトカゲをみたのは、原っぱ
の草むらだ。はじめてカミキリムシをつかま
えたのも。きみは原っぱで、自転車に乗るこ
とをおぼえた。野球をおぼえた。はじめて口
惜し泣きした。春に、タンポポがいっせいに
空飛ぶのをみたのも、夏に、はじめてアンタ
レスという名の星をおぼえたのも、原っぱだ。
冬の風にはじめて大凧を揚げたのも。原っぱ
は、いまはもうなくなってしまった。
原っぱには、何もなかったのだ。けれども、
誰のものでもなかった何もない原っぱには、
ほかのどこにもないものがあった。きみの自
由が。
何もないものに、言葉が、そのないものを刻むことで、それを存在させる。ただ、そこには
何もない空間に息づいた人の営み、生があり、そこが静かに満ちていくことで、刻まれた時
間と失った何ものかがある。その不在。でも、そこにはカンバスのように広がる自由があっ
たのであり、その何もなさの中で培って、得てきた言葉があったのだ。それを指し示すのも
言葉であり、そこに至れない言葉の世界がある。そのただ中に立つことの痛さも含めたいと
おしさ。
『われら新鮮な旅人』で、「われら」から始まった詩の世界は「きみ」に出会い、「きみ」
への呼びかけに移っていく多くの無名のぼくらの世界になり、ぼくは「きみ」へ語りかける。
ぼくのようにきみの生があり、それはどちらもささやかだが、かけがえがなく、かけがえの
なさは特権的なものではなく、そして、そこには生きた場所があって、だから死の場所もそ
こにとどまり続ける。
ごくささやかなもの、むなしいけれど、むなし
さにあたいするだけのいくらかの、ひそかな希
望を質すための。 (「初詣」一部)
そして、『詩ふたつ』から「花を持って、会いにゆく」冒頭から途中まで。
春の日、あなたに会いにゆく。
あなたは、なくなった人である。
どこにもいない人である。
どこにもいない人に会いにゆく。
きれいな水と、
きれいな花を、手に持って。
どこにもいない?
違うと、なくなった人は言う。
どこにもいないのではない。
どこにもゆかないのだ。
いつも、ここにいる。
歩くことは、しなくなった。
歩くことをやめて、
はじめて知ったことがある。
歩くことは、ここではないどこかへ、
遠いどこかへ、遠くへ、遠くへ、
どんどんゆくことだと、そう思っていた。
そうでないということに気づいたのは、
死んでからだった。もう、
どこにもゆかないし、
どんな遠くへゆくこともない。
そうと知ったときに、
じぶんの、いま、いる、
ここが、じぶんんおゆきついた、
いちばん遠い場所であることに気づいた。
この世からいちばん遠い場所が、
ほんとうは、この世に
いちばん近い場所だということに。
生きるとは、年をとるということだ。
死んだら、年をとらないのだ。
この詩では、このあと次のような連も現れる。
死ではなく、その人が
じぶんのなかにのこしていった
たしかな記憶を、わたしは信じる。
ことばって、何だと思う?
けっしてことばにできない思いが、
ここにあると指さすのが、ことばだ。
多くの人々の生を著作、場所、語り、自身の経験の中で引き受けていきながら、それらが言葉
となって言葉の限界までも静かに告げた。そんな長田弘が、大きな存在となって、しかも空気
のようにあたりに漂う。残された詩が、言葉が、語りかけを待っているような。
しっかり握りなおす、神さまがここにわすれてい
った古い鉄棒を、きみは世界の心棒のように。
(『深呼吸の必要』から「鉄棒」一部)