パオと高床

あこがれの移動と定住

荒川洋治『読むので思う』(幻戯書房)

2008-12-12 22:50:00 | 国内・エッセイ・評論
書名になっているエッセイ「読むので思う」の中の一節。「本を読むと、何かを思う。本など読まなくても、思えることはいくつかある。だが本を読まなかったら思わないことはたくさんある。人が書いた作品のことがらやできごとはこちらには知らない色やかたち、空気、波長をもつ。いつもの自分にはない思いをさそう。読まないと、思いはない。思いの種類の少ない人になり、そのままに。そのままはこまるので、ぼくも読むことにした。」2ページの長さのエッセイ。その結びは「人は読んだら、思う。少しでも何かを思いながら生きてきた。」ほとんどが2ページから4ページのエッセイである。フイッと自然に口語自由詩のような入りをするエッセイもある。短いセンテンスの疑問形から始まるもの、あるいはポンと作者と書名から切り込んでくるもの、日記のようなものもあるし、カタログのように項目を列記しながら、列記の狭間から何か降り注いでくるものがあるものも、ある。読みながら、いいな、と思えてしまう。パラッとめくればそこに広がる「思う」世界。中にある言葉がまた、光る。例えば「日記のようになれたら」。高見順の『敗戦日記』から入る。そして、「日記は実際にあったことに従うものではない。ときに別の岸に流れ着く。現実や思うところとちがう道をとり、ちょっと笑って、どこかへ向かう。そんなことが一日のなかにあるのだ。面白いことだ。人にとって、とてもいいことだ。日記のように生きられたら、どんなに楽しいことだろう。」と結ぶのだ。やんわりと現実と日記が逆転している。その柔らかな創造性への傾ぎがいい。犬塚堯や白川静、塚本邦雄、北原白秋などなどなどなど。ぞくぞくとぞくぞくする本たち。このエッセイ集のいけないところは、本が読みたくてたまらなくなるところだ。長田弘の本を巡る文章もよかったが、荒川洋治もいい。どちらも本への敬意と好奇に溢れていて、心と思いが作られていく着火点とその開かれがある。
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