パオと高床

あこがれの移動と定住

片山杜秀『皇国史観』(文春新書 2020年4月20日)

2020-09-22 10:11:39 | 国内・エッセイ・評論

令和を迎える節目に天皇と天皇制そしてそれを育てる皇国史観についての十回の講義がまとめられた一冊。
明治から大正、そして昭和、特に戦時下に強固になったという印象を持つ皇国史観が、そもそも歴史の中で
どのように継続され変遷してきたかが、手際よく語られる。

前期水戸学から話は進められる。水戸光圀らによって朱子学的な天皇像が形づくられ、江戸幕府体制の中での
水戸藩の置かれた位置が、幕府御三家でありながら天皇を中心とした尊皇の思想を形成していく。
将軍が天皇によって与えられた地位であり、天皇自体が存在することが儒教的な上下秩序の源泉であるとする考えが
前期水戸学であれば、外圧による必要性から、後期水戸学は神州不滅の思考に移り、より国民性が模索されながら
国学的な天皇への思考へと変遷していくと片山は説く。儒学的な上下志向から国学的なヨコ社会の共同体への価値観の変化。
その中でそれを束ねる永遠不滅の万世一系の必要性。すでに国体の形成が幕末の外圧からの国防を背景に描き出されている。
尊皇から尊皇攘夷へ。
水戸斉昭らによって否定された易姓革命が継続していく必然や、この時期にすでにある国体と天皇の関係が語られる。

そして、明治。「五箇条の御誓文」の中に片山は天皇の免責を読み取る。御誓文第一条の有名な「万機公論ニ決スへシ」は
同じ御誓文にある「朕躬(み)ヲ以テ衆ニ先ンシ」と合わせて読むと、そういいながら天皇には決定権がないとも取れると読み解く。
明治政府は天皇の責任を避けながら「公論」での決定として独裁の排除も含意しているとする。この第三回の講義は面白い。
伊藤らによって国家と天皇の関係は準備されていく。

片山は第四回で「大日本帝国憲法」を読み解く。第一条で天皇を「統治権の総攬者」として権威の源に置く。でありながら、
五十五条の「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ其ノ責ニ任ス」とあり、片山はその「輔弼」と「責」にこだわる。
「判断を下すのは大臣であって」、責任は天皇にはなく大臣にある。
また、立法についても五条「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」とあり、
立法者は議会だとしていると読む。伊藤は天皇を権威づけながらその責任を棚上げにしつつ、天皇自体の政治的力を
「ブロック」していると語る。
ここにすでに、以降の天皇機関説の萌芽や、軍部の統帥権への介入とのつながりがきざしている。

南北朝いずれを正当とみるかや、天皇機関説事件での攻防。また、平泉澄、柳田国男、折口信夫、網野善彦らの天皇像への言及など
整理されすぎている感じもするが、目から鱗がはがれるような合点がいく面白さがあった。
特に、柳田の「常民」思考とつながる「農業王とし天皇」像と、折口の「まれびと」論を基にした動的で商業的な天皇像の比較は面白かった。
また、網野史観の持つ時代性や網野の天皇制への追求も久しぶりに彼の本を読みたいと思わせてくれた。

では、さて現代の天皇とは。
片山は問いそのものを答えとして用意しているようだ。
第十回の「平成から令和へ」の章では、現在進行している問題が整理されている。
「定義される」存在だった天皇が、自らを定義した希有な例として昭和天皇の「人間宣言」が挙げられる。
それによって作られた「象徴」の意味。象徴を生きることの意味。平成天皇と現在の天皇の即位の時の文脈の異同。
明治期に作られた終生皇位が生前退位によって変わった点や、またこれも明治期に皇室典範に記された皇位継承の問題。
今、日常化して、むしろ日常的には意識しないほどになっている「皇国」について考える道筋になった一冊だった。
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『司馬遼太郎と昭和』2(朝日新聞出版 2020年4月5日発行)

2020-05-05 17:36:53 | 国内・エッセイ・評論
真実は藪の中。それこそ芥川龍之介の小説あるいは黒沢明の「羅生門」ではないが、
この本に収録されている司馬遼太郎が直木賞を受賞したときの夜の話が面白い。
作家の三浦浩が、小説『菜の花の賦―小説 青春の司馬さん』に書いた受賞報告の夜の描写では、
会社の文化部に三浦浩と司馬だけがいたとなっているらしい。だが、妻のみどりさんは、「異論」があって、
発表の夜は二人で寄せ鍋をしていたと語っているとのこと。ところがさらに、本人の受賞のことばでは、
浴室で頭を洗っていたことになっているらしい。
この箇所を書いた記者は、こうまとめる。
「かくして直木賞の夜は、フィクションに包まれている」。
作家がフィクションに包まれているのはいいよな。そして、そのどれもが司馬遼太郎なんだろうな。
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『司馬遼太郎と昭和』(朝日新聞出版 2020年4月5日発行)

2020-05-02 13:48:56 | 国内・エッセイ・評論

昭和」に関しての司馬遼太郎の「発掘インタビュー」、講演録、「菜の花忌」シンポジウムや『街道をゆく』担当者座談会などを収めた一冊。
記者が司馬遼太郎の作品世界を旅しながら司馬が生きた昭和を、昭和を考え続けた司馬を描き出していく。「司馬MOOK」シリーズの一冊。
「早稲田文学」の発掘インタビュー「軍隊、悪の魅力、私の小説」が面白かった。
司馬がたびたび語っている戦時下の日本の軍隊の不条理をめぐる発言、思索から始まり、
時代をひっくり返す悪の魅力と力を斎藤道三から語っていく。
と思えば、司馬自身が持っていたゼロになりたいという子どものころからの衝動が、
空海が持つゼロを見つけたいという創作動機と結びついて『空海の風景』が生まれたということも語る。

または、本多秋五や加藤周一の批判にきちんと批判し返している痛快な場面もある。
本多秋五にとっては、司馬が歴史において相対化していく態度が不愉快なのだろうと語りながら、
司馬自身は絶対的なことが嫌いなのだと逆批判する。当時のマルキシズムを絶対視した批判に疑問を呈している。
「マルクスは僕にとって青春の頃から今に至るまで大事な隣人なんです。だけどもよくわからない隣人でもある」と語り、
それがローマ以来の神学と繋がっている感じがあるとして、本当かという疑問を持つと語っている。

また、加藤からの「民衆」と「経済的な要因」が書かれていないという批判には、自分が庶民だから、「庶民めかしく、
自分の庶民像の投影を再生産する形で書くというのは、僕の美的感覚からいえば余り好きではありません」と作家として
真摯に語っている。そして、「加藤さんは今はそんなことおっしゃられないと思います」とこの話題を結んでいる。

そうだ、司馬は膨大な座談、対話をこなしている。
そうか、司馬にとっては対談座談も歴史との対話と同じように現代との対話だったのだ。
書籍文献の森に分け入ることと街道をゆくように実地の地理的空間を歩くこと。
歴史上の人物と出会うように今、現在そこにいる人と出会うこと。これが司馬遼太郎という脳宇宙を創りあげたのだ。
そのすべてに司馬遼太郎は自身の身体から発するものを重ねていたような気がする。
だから、小説の人物は躍動するのだ。司馬の知性は闊歩するのだ。
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唐十郎『特権的肉体論』(白水社 1997年5月15日)

2020-04-15 19:27:37 | 国内・エッセイ・評論


唐から、演劇界を駆け抜けた唐から、元気をもらおうと思って、この本の中の数篇を拾い読みする。
これは、以前『腰巻きお仙』に収録されていた。
千田是也を中心にした新劇界に肉体の特権性で挑みかかった唐という印象がやはり強い。頭でっかちになっていき、
時間や空間の中に「スルスルと吸い込まれ」ていく、その「スルスル」に「特権的肉体」で待ったをかける。

  肉体とは、……最も現在形である語り口の器のことだ。(「いま劇的とはなにか」)

とか、

  もし、この世に、特権的時間という刹那があるなら、特権的肉体という忘れ得ぬ刹那もまたあるにちがいない。(「石川淳へ」)

「ホラホラ、これが僕の骨……」とうたう中原中也に痛みという肉体を見出し、檀一雄に雪の中で投げ飛ばされ、
「お前は強いよ」と言って立ち上がった中原中也の話から始められるこの本。芝居という空間を作り上げる肉体の特権性をめぐる話は、
勢いのある文章とその文章を支えると独特な論理とイメージの疾走がかっこいい。

  痛みは、肉体を気づかせ、恥は、肉体の痛みを持続させる。しかし、痛みの意識は、自らの内に自然に発生するものではなく、
 そこには必ず他者の視線が介在する。石に頭をぶつけて、痛いという感覚とは逆に、視られた肉体の痛みは、自らを石にさせるのだ。
                                                (「いま劇的とはなにか」)

痛みを与えたものになる自分をみつめるまなざし。自分が相手になるその瞬間。これは見る—見られるを超える瞬間かもしれない。
演劇の発生する現場かもしれない。

  肉体が自らのものであるのに、自らのものでなくなってゆくこのような麻痺は、あの痛みの意識から始まる。(いま劇的とはなにか))

身体と精神の二元論的な考えが、一瞬に瓦解するその刹那の麻痺をとらえているのかもしれない。
この文章には実存の深みをみつめる一節も出てくる。存在は、この瞬間に舞台に立つ。

  存在の井戸を覗き込んでいるうちに、逆に、井戸から覗き込まれるとしたら、そこから身を離しても、意識は逃げのびるどころか
 井戸の底に向って降りてゆかねばならぬ。(「いま劇的とはなにか」)

唐は、この1970年の文章で書く。

  これはけっして芝居の世界だけではない。現代芸術というものが、すべからく、肉体を枯らした空騒ぎの世界に包含されているのだ。
  ならば、肉体の特権的時間とは何か、肉体の山水花鳥とは?—
  いつだって、見るべきものがなくなるなどということはけっしてないのだから、君は足を使って出かけてゆくのだ。
  どこかにある現代の河原へ。(「幻の観客へ」)


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本間ひろむ『アルゲリッチとポリーニ』(光文社新書 2020年1月30日)

2020-02-21 22:53:43 | 国内・エッセイ・評論


副題は「ショパン・コンクールが生んだ2人の〈怪物〉」。
60年にショパン・コンクールを制したポリーニ。65年優勝したアルゲリッチ。
この対照的な2人を軸に20世紀後半からのクラッシックシーンを描く。
「完全無欠な演奏」をスコアの読み込みから展開するポリーニと、
卓越した技術を持ってさらに情感豊かに弾くアルゲリッチ。そこに、ショパンコンクール歴代演奏家のことや
コンクールをとりまく選考委員の話、それぞれの師匠との関係や音楽との向き合い方、日本の音楽シーンの
変遷までもが加わえられ、読みやすく綴られている。
私生活が現れ出るアルゲリッチとあくまでも自らの生活と切り離したところで演奏家として生きるポリーニ。
そんな2人だから当然そこから生まれる音楽は異なる。
ミケランジェリ、ホロヴッツなどなど、出てくる音楽家がそれぞれ気になり、魅力的。
そうだよな誰がお気にいりだよなとか、思いながら楽しく読んだ。
日本の演奏家についても期待を持って書かれていて、あっ、この名前覚えておこうと思えた。
クラッシックの世界は広いし深いと思う。
最後には2人の名盤20が挙げられていて、ナビにもなっている。
ちょっと苦手だったアルゲリッチのラヴェルを聴いた。よかった。キラキラと輝いた音が情感を失わずに溢れ出していた。
ポリーニのブラームスのピアノ協奏曲、何だか違和感があったけれど、また聴いてみよう。
ポリーニのショパンは妙な感情移入や思い込み過多がなくて、一時期とても好きだった。
アバドは協奏曲の上手な指揮者だったのかもしれない。
ショパンコンクールについては、「ピアノの森」や「いつまでもショパン」を思い出しながら読んだ。
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