毎年恒例の 富士山の山開きに続いて、志木市本町の敷島神社境内にある「志木のお富士さん」として親しまれる「田子山富士塚」も16年7月2日、30余年ぶり”山開き“した。(写真)
3776mの本体に対し、こちらは高さ約9m。敷地面積990平方m、周囲の長さは125mと人工的なミニ富士山である。
この富士塚は付近の住民が150年前の1872(明治5)年、2年8か月かけて古墳だったと伝えられていた田子山塚の上に土を盛り上げたものだ。敷島神社ができたのは1908(明治41)年だから、神社より古いわけだ。遠く富士山から船便で運んできた「黒ぼく」と呼ばれる溶岩も、北側斜面に配置されている。
江戸中期以降広まった山岳信仰の一つ、富士信仰から、県内の村々には富士講(富士山登山を目的にする人たちのグループ)が組織された。富士山の山登りのシーズン中には地元にいながら富士山に登ったのと同じご利益があるとされる富士塚を造り、登る人が多かった。県内には約170基が残っているというから驚く。
熱心な富士信仰の信者だった醤油製造業・高須庄吉が、夢のお告げに従ってこの塚に来たところ、南北朝時代初めに旅の僧が建てた富士山に関わる逆修(生前葬)の板碑を発見した。富士信仰に篤い庄吉はいたく感動、富士塚建造を決意して同志を募った。
この板碑は登り口の浅間(せんげん)下社に収められている。山腹には約150もの石碑や石像も建てられていて、石像に刻まれた寄進者数は2000人を超す。
当時の歌舞伎の名優、尾上菊五郎、坂東三津五郎などの名も奉納者として刻まれている。
本町は「引又宿(ひきまたじゅく)」と呼ばれていた。近くの新河岸川舟運による「河岸場(かしば)」があり、奥州街道の脇往還(バイパス)の宿場、それに定期市も開かれ、人や物が集まる大商業地だった。その経済力が築造の背景にある。
晴れた日には、山頂から富士山を望むことができる。しかし、富士信仰が薄れ、老朽化に伴って登山道などが崩れて、30年余前から立ち入り禁止になっていた。東日本大地震では石碑なども倒れ、登山はできない状態だった。
2005年、 地元有志が田子山富士保存会をつくり、県指定だった有形民俗文化財を後世に残そうと、募金を呼びかけたところ、1700万円以上が集まった。県や市の補助金も加えて総事業費2800万円で修復に乗り出し、2年間でほぼ完了した。
東上線志木駅東口から歩いて約20分、新しい観光地になりそうだ。
参考文献:「田子山富士のナゾ(歴史編)」(田子山富士保存会発行)