竹寺は、その名のとおり、境内に孟宗竹の美しい林が茂り、金明竹、四方竹、亀甲竹など各種の竹が植えられているお寺である。珍しい竹の鳥居もある。
寺だから寺らしく、山号、院号、寺号もあり、正式には天台宗の「医王山・薬寿院・八王寺」で、竹寺は通称だ。
竹で作った食器、竹筒に入った般若湯(お酒)、何から何まで竹製の器で山菜料理を出す精進料理(竹膳料理)で有名。
第二次大戦後まもなく、読売新聞俳句欄の選者だった秋元不死男氏が、竹寺で宿泊した折、「題材も多く、環境もいいので俳句寺にしたらどうか」という話を持ち出し、読売紙上に「奥武蔵俳句寺」として紹介したことから、多くの俳人や俳句愛好家が訪れるようになった。不死男氏のほかいくつかの句碑もある。
西武池袋線飯能駅から国際興業バスで40分、終点中沢で下車、坂道の車道を登り徒歩で40分の所にある。
竹寺の後、「子の権現」に詣で、西武池袋線吾野駅に出ることもできる。格好のハイキングコースで、この二つの寺を一緒に回る人が多い。
15年9月中旬、秋晴れがやっと訪れた土曜日にこの寺を訪ねた。
竹寺は神仏混淆の寺として有名だ。竹寺の入り口にある「茅の輪(ちのわ)」をかたどった「茅の輪の門」の右側に立つ緑色の丸い筒には、「神仏習合の遺構 竹寺」と書いてある。東日本で残っている唯一の遺構だという。
1868(明治元)年の神仏分離令で、日本の神は本地(ほんじ・本来の姿)である本地仏が、衆生済度のために仮の姿である神に姿を変えて現れたとする神仏習合(神仏同一説)が廃され、廃仏毀釈が進められた。
神仏習合は、それまでの「本地垂迹(すいじゃく)説」に基づく。例えば、熊野権現の本地は阿弥陀如来であるといった考え方で、神仏分離は神道を仏教から独立させようとする神道国教化の動きだった。
竹寺の本尊は、「天王さま」と親しまれている牛頭天王(ごずてんのう)である。寝殿造りの本殿(牛頭天王社)には牛頭天王が祀られ、境内にはいかめしいブロンズの牛頭天王像がある。「八王寺」という名も祀られている牛頭天王の8人の子供にちなんでいる。
牛頭天王は、インド祇園精舎の守護神と言われ、中国を経て日本に伝わった。スサノオノミコトと同一視されることもある。神仏分離令後、日本にある牛頭天王のほとんどがスサノオノミコトに、その社名は八坂神社に改称させられた。
牛頭天王の本地仏は薬師如来で、竹寺では「瑠璃殿」と呼ばれる「本地堂」に祀られている。
八王子も分離令の出た翌年、薬師如来の12神将の一人である「招杜羅(しょうとら)大将」に改めたが、いつの頃からか元の牛頭天王に戻ったという。
山奥のため目が届かなかったのだろうか。牛頭天王は、神ながら仏との区別が明確でないためだったのだろうか。
本殿入り口の鳥居には「医王山」という額がかかり、7月15日の牛頭天王祭は仏式で行われるなど、ここでは神と仏が今でも平和共存している。
この鳥居についている本物の茅の輪をくぐれば、心身が清浄になり、疫病から逃れられると伝えられる。牛頭天王ゆかりの「蘇民将来」のお守りも有名だ。
武蔵野観音第33番結願(けちがん)所にもなっていて、樹齢400年の高野槙もある。