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河越夜戦 川越市

2015年04月23日 14時23分20秒 | 中世



川越市の市街地の最北部にある東明(みょう)寺の門をくぐるとすぐ、「市指定史跡 川越夜戦跡」という大きな石碑が立っているに気がつく。(写真)

河越が川越と表記されるようになったのは、江戸時代以降のようだから、戦国時代16世紀半ばの1546(天文15)年4月20日夜に河越城に近いこの寺周辺で展開された奇襲戦は、「河越夜戦跡」とも呼ばれる。

この奇襲戦は、「戦国時代の三大奇襲戦」と称される。織田信長が今川義元の大軍を破った「桶狭間の戦い」、中国地方の毛利元就が陶晴賢(すえ・はるかた)の大軍を破った「厳島の戦い」と並ぶものだというから驚く。

戦国時代の幕を開いたとされる小田原を根拠地とする北条早雲の北条家(鎌倉幕府の執権北条家と区別するため後北条家と呼ばれる)は、三代目氏康の時代で、すでに河越城は先代の氏綱が攻め落とし、氏綱の養子の猛将・綱成(つなしげ)が城代を務めていた。

河越城は、扇谷上杉家の命で1457(長禄元)年、重臣大田道真、道灌父子が築城したものである。

扇谷(おうぎがやつ)上杉家の上杉朝定は、関東管領・山内(やまのうち)上杉家の上杉憲政、古河公方(こがくぼう 古河を本拠とした足利氏)の足利晴氏(はるうじ)の支援を得て、奪還を狙って総勢8万の連合軍で1545(天文14)年10月から、河越城を包囲した。

城内に籠もる兵力は3000人。氏康は駿河で今川・武田勢と対戦中で動けなかった。

包囲から半年後、今川義元と和睦を結んだ氏康は8000の軍勢で救援に向かった。しかし、氏康は連合軍を欺くため、軍を府中まで後退させた。

1546年4月20日夜、氏康は部隊を四分し、夜陰にまぎれて連合軍の背後から奇襲をかけた。「河越夜戦」である。

察知した綱成も城内から出撃、油断していた連合軍は大混乱に陥り、敗走した。当時はもっと広大だった河越城に近い東名寺境内で特に激しい交戦があったとされる。このため「東明寺合戦」とよばれることもある。

総大将の上杉朝定は戦死、扇谷上杉家は滅亡した。約1万6000人の将兵が討ち取られた。

扇谷上杉家に謀殺された大田道灌が死に際に残した「当方滅亡」の予言は、60年後に現実のものになったのである。

上杉憲政は上州に敗走したが、後に越後の長尾景虎のもとに逃れ、上杉の家名と関東管領の地位を譲り渡した。これで関東一の名門、山内上杉家も滅亡、長尾景虎が上杉を名乗り、出家して「上杉謙信」となった。

古河に退去した足利晴氏は、その後、氏康に攻められ大敗、北条氏綱と血縁のあるその子、義氏(よしうじ)が古河公方を継承、後北条家の支配下に入った。

河越夜戦で、扇谷・山内両上杉家は滅亡、古河公方も支配下に入り、後北条家の武蔵支配が確立されたのである。河越夜戦は、関東の勢力地図を塗り替えたのだった。

しかし、その後北条家も1590(天正18)年、全国統一を狙う豊臣秀吉の小田原城攻めに屈し、落城、5代100年にわたって、小田原を本拠地に関東に君臨した後北条家も滅亡、戦国時代は終わり、中世も終わった。

後北条家の鉢形、忍の両城が開城したのもこの時である。