団地とは。夫婦と子供2人を想定した2DK。ダイニングキッチン(DK)に6畳、4畳半。フロアにはテーブルと椅子もある洋風間取り。バスに水洗トイレ、それに洗濯物を干せるベランダ。家賃は月収の約40%。
40~60平方m。ダイニング(食堂)とステンレスの流し台のあるキッチン(台所)をスペース節約のために一つにし、銭湯に出かけるのではなく内風呂付きで、汲み取り式ではなく水洗トイレつきだった。
1958(昭和33)年、「団地族」という言葉が生まれた頃には、これだけが揃っている日本住宅公団(55年設立)の「公団住宅」は、あこがれの的だった。
埼玉県には、東武東上線や東武伊勢崎線沿線などに大規模団地が続々と立ち、東京からのあぶれ族を核とする「人口爆発」を支えた。
「日本住宅公団史」をめくると、1955(昭和30)年度から79(同54)年度までに、賃貸、分譲合わせて約10万4千戸ができ、さいたま県は、東京都、大阪府、千葉、神奈川県に次いで5番目だった。
県の人口が700万人を超し、全国5位、市が40と全国一の数になったのも、この団地建設が基礎になった。
住宅公団の県内初の大規模団地は、「霞ヶ丘団地」だった。ふじみ野市霞ヶ丘にあり、東上線上福岡駅から歩いて3分。
2階建て長屋スタイルのテラスハウスが多く、1959(昭和34)年入居開始当時は、公団の関東支所(東京、千葉は東京支社)で最大(204棟、1793戸)の団地だった。
老朽化して、高層の「コンフォール霞ヶ丘」に建て替えられているので、昔を知る人は少なくなってきそうだ。
ふじみ野市には、上福岡駅を挟んでもう一つ古い公団住宅がある。上野台にある「上野台団地」である。
旧陸軍弾薬工場(火工廠)の跡地に出来たもので、1960(昭和35)年竣工当時は、関東支所最大(2080戸)とされた。
「霞ヶ丘団地」と「上野台団地」は、有名な「八千代台団地」(千葉県八千代市、57年)、高島平団地(東京都板橋区、72年)、「香里団地」(大阪府枚方市、58年)、「男山団地」(京都府八幡市、71年)などとともに「東洋一のマンモス団地」と呼ばれた。
今では「ギネス世界一」だが、当時はまだ「東洋一」自慢だったのである。
「東洋一」と言えば、草加市の「草加松原団地」(5926戸、62年)、春日部市の「武里団地」(5559戸、63年)も、竣工時そう呼ばれた。
草加の人口は、1年間で約2万人増加し、人口増加日本一を記録したほど。2万人以上が暮らした「武里団地」には何年か住んでいたことがある。当時は東洋一とは知らなかったし、その実感も余りなかった。
県内にはこのほか、上尾市西上尾小敷谷に「西上尾第一団地」(3202戸、69年)、「西上尾第2団地」(3033戸、70年)もある。
もっと大きいのは、武蔵野線新三郷駅に近い三郷市の「みさと団地」である。総住宅戸数は、1万戸に近い9867戸。人口2万3千人を擁する国内指折りのマンモス団地。
南ブロック(1-6街区)は5階建て低層住宅、北ブロック(8-14街区)は11階建て高層住宅が多い。
1973(昭和48)年、第1次入居開始なので、老朽化も目立ってきた。
巨大なマンモス・クラスだけを挙げてみたが、東京に隣接する埼玉県は全国屈指の団地県だった。
団地の林立には問題もあった。草加松原団地の場合、98%近くが都内へ通勤、県内勤務はわずか1.8%で、ベッドタウンそのものだった。また、南浦和団地に住む人の83%が東京の人だった。
草加松原団地では、公団が上水道、ごみ、し尿処理場などは公団が整備したものの、小学校2つと中学校1つの建設費は草加市持ちだった。
「これでは受け入れ市の財政負担が増えるばかりで、埼玉県の住宅対策にはならない」と「住宅団地お断り」の声が各地で高まってきた。
県と住宅公団との話し合いで、関連施設の整備も考慮した大規模団地(2500~3千戸)の建設と県民の優遇入居促進も要望された。
住宅不足解消のため住宅公団に代わって、県営住宅や県住宅供給公社の比重が高まって来るのである。
戦後、激増した県人口 16年がピークに
現役時代、人口問題の勉強会に入っていたこともあって、人口動態には非常に興味がある。
人口は汐の満ち干と同じで、ひたひたと確実にやってくる。大騒ぎを始めている高齢化、人口減少もとうの昔から予測されていたことだ。
国勢調査は1920(大正9)年に始まり、5年ごと10月1日に行われる。以来、ひたすら右肩上がりを続け、人口増加率が日本一を誇ったこともある本県も、下降に転じそうだ。
人口を棒グラフ、増加率を折れ線グラフでまとめた県統計課の表を眺めていると、感慨深いものがある。
始まった20年にはわずか132万人(全国で16番目)だった。さいたま市の15年の人口が126万人(国勢調査)だから、県全体で現在のさいたま市程度の人口しかなかったことになる。
増加率を見ると、40(昭和15)から45(同20)年。60(同35)年から85(同60)年の25年間の伸びが目立つ。いずれも増加率が日本一だったころである。
40~45年は、敗戦間近な44~45年の1年間の伸びがめざましい。多くの軍需工場が京浜工業地帯から県内へ避難、学童や縁故者などの疎開者がどっと流入したからだ。
人口は40万人以上増え、45年には200万人を突破した。増加率は24%にも達した。
60~85年は、住宅団地や工業団地が一斉に造られ、本県が東京のベッドタウン化し、農業県から工業県に変貌した時期である。
35年に243万人(全国10位)だったのが、65年301万、75年482万、85年586万とうなぎのぼり。
85年には北海道を抜いて全国5位になり、この25年間に人口は2.4倍に増え、全国一の増加県になった。90年には640万人。
ついでながら、県人口が500万になったのは1977年、600万は87年、700万人は2002年だった。
都心から30km圏内の草加、八潮、越谷、新座などの人口は5倍以上に激増した。
北葛飾郡三郷村は、団地のおかげで、村になったのが56年なのに、64年には町、72年には市へと三段跳びをした。
その昔、10世紀初頭、武蔵国ができた頃には、埼玉県域の人口は約9万人と推定している歴史書もある。
1876(明治9)年、埼玉の現在の県域がほぼ確定したころは、ざっと90万人だったという。
県人口は2016年がピークで約730万(全国で5番目)。伸び率は前回比0・9%で過去最低だった。20年には713~724万、25年には700万、40年には630万人(人口問題研究所)に減少するという予測もある。
15年の国勢調査の結果では、63市町村で23市町村が人口増、40市町村が減を記録した。最も増えたのはさいたま市で126万人に。増加率では戸田市が10・6%と最大、吉川市が6.8%でこれに次いだ。減少数の最多は所沢市の6049人。人口は33万5000と越谷市を下回り5位になった。
減少数が大きいのは熊谷、本庄、行田市といった群馬県よりの県北部で、減少率が最大だったのは東秩父村の12・2%、次いで小鹿野町の9・9%だった。
超高齢化の進行とともに気になる数字である。
14年1月1日時点の総務省の人口動態調査では、外国人の流入は、中国人、ベトナム人が主で川口市(1370人)が最も多かった。県内への外国人の増加人数は約3978人で、47都道府県で一番多かった。
川口市の外国人人口は2万2958人で、さいたま市を上回り県内で最も多かった。埼玉県の日本人の人口の伸びは9007人だったので、外国人の流入で支えられている割合が高い。