「老中の城」 川越 忍 岩槻
埼玉県にいた大名で、全国に知られているのは、5代将軍綱吉の側近で、その名も側用人だった柳沢吉保に限らない。吉保は、大老格まで上り詰めたが、本物の老中になったことはなかった(老中格)。
じじむさい感じが強いこの「老中(ろうじゅう)」とは何か。もともとは徳川家の「年寄」に由来する。農村でいろいろのことを決める長老たちによる合議制を導入したものとされる。「年寄衆」とも呼ばれ、寛永の頃、「老中」の名が定着してきた。
一人ではなく合議制で、定員は4~5人。おおむね2万5千石以上10万石以下の譜代大名から選ばれた。譜代大名とは、関が原の戦い以前から家康の家来だった者だ。
10万石を超すと大老だ。幕末の井伊大老のように臨時の職で、常置の職としては、老中は幕府の最高の地位。月番制で幕政一般を取り仕切った。
老中たちが評議で決め、将軍は形式的に認可するだけだったから、幕政の実質責任者である。町奉行、勘定奉行、大目付などを指図した。
藩邸に戻ると藩主としての仕事が待っているので、勤務時間は午前10時から午後2時までだった。
埼玉県関係の藩主で、松平吉保と並んで知名度が高いのは、川越の先輩藩主、松平信綱だろう。
3代将軍家光の小姓時代からの側近中の側近、名目上の官位の入った「松平伊豆守信綱」という名で知られる。大変な知恵者で、「知恵伊豆(知恵出づ)」と呼ばれた。
吉保と違って、本物の老中で忍藩主(3万石)を経て、川越藩主となった。老中といっても、なったのはまだ30代の後半のことだから、今のような高齢化時代の「老人」とは違う。
最大の功績は、「島原の乱」の鎮圧である。
発生したのは1637(寛永14)年10月。日本史上最大の一揆で、当時16歳のキリシタン天草四郎に率いられた農民、漁民、商工業者、浪人、キリシタン(カトリック)ら約3万7千人が、過酷な年貢負担や宗教迫害に耐えかねて、島原半島と天草諸島で決起、島原半島の原城に篭城した。
幕府はまず、板倉重正を総大将とする九州諸藩の討伐軍を送ったが、総大将が突撃して戦死する始末で、急きょ老中の信綱が派遣された。信綱の軍勢は13万近くにのぼった。
信綱は兵糧攻めに持ち込み、翌年2月末、総攻撃で落城させた。篭城軍は3万4千が戦死、女・子供を含め生き残った3千人が斬首された。皆殺しである。
島原藩主松倉勝家は、過酷な年貢取り立てで一揆を招いたとして、改易(武士を平民に落とし、領地・家屋敷を没収)処分後、斬首された。江戸時代に大名が切腹ではなく、斬首されたのはこの一人だけである。
島原の乱は以前、島原が有馬晴信、天草が小西行長、とキリシタン大名の領地だったことから、よくキリシタン一揆といわれる。その一面はあったとはいえ、百姓一揆の性格が強かったことが、この処分を見ても分かる。
信綱はこの乱の後、老中首座として幕政を統括した。キリシタン取り締まりを強化、カトリックのポルトガル人を追放、プロテスタントのオランダ人を長崎・出島に隔離して、幕府の鎖国体制を完成させた。
一揆鎮圧の功で1639年、3万石増6万石(後に7万5千石)で川越藩主になった。藩主時代、城下町の整備や江戸と結ぶ新河岸川や川越街道を整備、野火止用水(伊豆殿堀の別名も)を開削させるなど、川越藩への貢献も絶大だ。
明治維新後、川越が埼玉で初めて市になった基礎を築いたのも信綱だとされている。
このような大物ながら、人望はいま一つだったらしい。下戸で、好きなことは政治問答。茶の湯、和歌、舞、碁、将棋をたしなまず、政務一筋だったからからだ。墓所は、新座市の平林寺にある(写真)。
幕政に貢献したのは、この二人だけではない。埼玉県立歴史と民俗の博物館の図録の「歴代藩主一覧」で数えてみると、老中を務めた藩主は、知名度こそ低いとはいえ、川越藩で信綱を含めて7人、忍、岩槻藩で各6人、実に19人もいる。
この三つの藩の城が、「老中の城」と呼ばれたゆえんである。老中など幕府の要職に突いた大名は、江戸に常駐したため、任地を訪れるのは限られた時だけだった。
川越藩主 柳沢吉保
「無知とは怖いものである」、とつくづく思った。
大宮公園の片隅にある「埼玉県立歴史と民俗の博物館」は好きな施設で、よく出かける。何か催しを見に行くと、新しい知見が得られるのがうれしい。
12年3月20日の春分の日から「大名と藩 天下泰平の立役者たち」という特別展が始まったので、早速その日に訪れた。
島津77万石(実際はその半分程度だったらしい)の薩摩出身なので、「埼玉県にそんな有名な大名や藩があったかな」と、あまり期待していなかった。
展示品の数も少なく、とりたてて見るものもなかったので、将来何かの参考になることもあるかと、700円の図録を買って帰った。
晩酌をやりながら、「ごあいさつ」や「総説―北武蔵野大名と藩」に目を通しているうち、思わず酔いが醒めてきた。(写真)
小藩だと侮っていた北武蔵(埼玉県)の大名と藩が実は、江戸幕府の政治を牛耳っていたことが分かったからである。
たとえば、柳沢吉保。この名には学生時代からなじみがある。暇があれば、東京・駒込の六義園に足を運んだ。大学に近く、つまらない授業をさぼっては好きな本を読んで過ごす素晴らしい木陰を与えてくれた。何度行ったか分からない。
入り口に六義園の説明板があったので、吉保の名前は頭に刻み込まれている。東京都・本駒込にあるこの庭園は、吉保の下屋敷(別邸)だった。大名庭園では天下一ともいわれた「回遊式築山泉水庭園」(文字どおり築山と池をめぐってながめる庭)で、国の特別名勝に指定されている。
「六義」とは何か。「古今和歌集」を編んだ紀貫之が、その序文に書いている六義(むくさ)という和歌の六つの基調を表す言葉だという。
中国の詩経にある漢詩の分類法で、体裁は「風、雅、頌」、表現は「賦、比、興」の六つなのだそうだ。
驚くのは、吉保の和歌に対する造詣の深さである。六義園は、この六義を、古今の和歌が詠んでいるように庭園として再現しようとしたもので、設計は吉保本人によると伝えられる。
和歌とともに庭園作りへの吉保の打ち込みようが分かる。学問好きだったと伝えられる吉保は、大変な教養人だったのだろう。
ところが、吉保に対する一般的なイメージは違う。
授業をサボっては、六義園で昼寝した当時は、時代劇の全盛時代だった。時代劇映画で決まって悪役として登場するのが、吉保と十代将軍家治の同じく側用人(そばようにん)を務めた田沼意次である。
五代将軍綱吉の時、将軍親政のため、将軍と大老や老中の間を取り次ぐために新設したのが側用人である。その側用人だったのが吉保で、老中格だった。
綱吉は、生類(しょうるい)憐みの令で、「犬公方」と呼ばれ、江戸庶民の悪評を買った。その側近中の側近だから、評判がいいはずはない。吉保邸には贈賄する人が行列し、露店ができたという話さえある。
おまけに、綱吉時代に起きた忠臣蔵事件では、吉保が重用していた儒学者、荻生徂徠(おぎゅう・そらい)の切腹論にくみしたので、二人の悪評に拍車がかかった。
この吉保、30台半ばで7万2千石で川越藩主に、10年務め、ついで15万石で甲府藩主に栄転、幕府では大老格まで上り詰めた。
川越藩では、在任中に訪れることはなかったが、三富(さんとめ)新田を開拓、甲府藩では城と城下町を整備、「是(これ)ぞ甲府の花盛り」とうたわれたほど繁栄させた。行政的な手腕もあったようだ。
綱吉が死去すると、手塩にかけて造った六義園に隠居した。綱吉は生前、実に58回、この庭園を訪れたと言う記録があるという。両社の関係の深さが分かる。