ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

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塙保己一   雨富検校

2010年05月11日 17時13分24秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 

塙保己一 雨富検校

保己一は人生で二度大きな挫折に見舞われた。その危機を救ったのは、保己一が江戸で入門した盲人の一座の頭領である雨富須賀一検校だった。

当時、盲人の男性たちは幕府公認の「当道(とうどう)座」といわれる組合を作って、あんまやはりの治療、琴、三味線の音楽の流し、高利貸しなどで生活していた。このような盲人が自活する組合は世界に類はなかった。

いずれも技術を修行して身につける必要があった。多くの幕府公認の階級があり、その最高位が検校。検校はそれぞれ弟子を持ち、一座を作っていた。

雨富検校は、茨城県の農家の出身、幼い頃病で失明、江戸に出てあんまとなり、検校に出世、家は現在の新宿区の四谷にあった。その本姓が「塙」だった。

人間には、得手不得手がある。保己一は、江戸に出る前から記憶力は抜群だった。しかし、生まれながらの不器用。あんまもはりも下手、琴も三味線も調子外れだった。


幕府は盲人の生活を保証するため、「座頭金(ざとうがね)」という高利貸しを許していた。その取り立てもできず、完全な落ちこぼれであった。

江戸に来て1年後の16歳の時、絶望して、近くの九段坂にある牛が淵の堀に身を投じようとしたが、「命の限り励めばできないことがあろうか」という検校の言葉を思い出し、思い直した。

検校は、保己一が学問好きで非凡な才能の持ち主であることは分かっていたので、「盗みとばくち以外、何でも好きなことをやれ。三年間面倒を見る」からと、好きな学問に打ち込むことを許した。

生きがいを得た保己一は、嫌いだったあんまやはりにも精を出し、代金の代わりに本を読んでもらった。学問好きなあんまは評判になり、検校の隣家の旗本は一日おきに本を読んでくれ、国学者に紹介してくれた。

こうして学問への道が開かれ、国文学、国史、神道、漢文、律令(日本の古い法律)、医学と範囲は広がっていった。

学問をしながら、「般若心経」を毎日、百回読むことを決め、18歳で普通の盲人たちの上に立つ「衆分」に昇進した。

目の見えない保己一の学問は、人が読んでくれるものを必ず覚えこむやり方で、絶えず聴覚を緊張させていなければならない。ただでさえ健康でない保己一はこのストレスのため20歳頃病気がちになり、良くならなかった。

心配した検校は、今で言えば転地療法のため、保己一に伊勢神宮への代参を勧め、5両を与えた。目の不自由な保己一のため父親が同行した。

伊勢の後、京都、難波、播磨、紀伊、大和、吉野へまわり、60日余。保己一はすっかり元気を取り戻した。学問の視野が広がったのは言うまでもない。

盲人社会では、昇進のために大金がいる。「衆分」「勾当」へと昇進の際、保己一の金銭の面倒を見てくれたのも検校だった。

保己一が、検校の本姓「塙」を名乗った理由がよくわかる。雨富検校は、保己一が38歳で検校になった翌年没した。

雨富検校と保己一の墓は四谷の愛染院に並んで立っている。(写真) 目は不自由でも具眼の士がいたのである。この項は主に、「埼玉の偉人 塙保己一 利根川宇平著」(北辰図書)による。


塙保己一 グラハム・ベル

2010年05月11日 10時01分47秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 
塙保己一 グラハム・ベル

それではヘレン・ケラーはどうして保己一のことを知っていたのだろうか。

保己一についての著書が多い元埼玉県立盲学校長の堺正一氏は「奇跡の人・塙保己一 ヘレン・ケラーが心の支えとした日本人」(埼玉新聞社)の中で、「電話の発明者として有名なグラハム・ベル博士が、ヘレンの母親に保己一のことを話して聞かせ、励ましたようだ」と推測している。

氏には、この他にも「今に生きる塙保己一 盲目の大学者に学ぶ」(同社)などの著書があり、このシリーズもこれらの本によるところが多い。

ベル博士の本職は、実は聴覚障害者教育の専門家で、全障害をその教育に捧げた。その博士から明治の初め、文部省から派遣されていた伊沢修二という人が教えを受けていた。
1876年、博士が初めて電話の実験で通話した相手はこの人だったと言われるほど、博士と親しい間柄だったので、「日本には幼くして失明したのにめげず、大学者になった人がいる」と話していたのではないか。

博士は、ヘレンの家族ととても親しい仲で、ヘレンの最初の先生でもあったという。ヘレンの先生になった有名なサリバン先生がヘレンのうちに紹介されたのも博士の力添えによるものだった。

ヘレンは1937年の埼玉会館での講演で、「母から塙先生のことを聞き、先生を目標にがんばってごらんなさい」と励まされたと語っている。

伊沢は帰国後、文部省の編輯(編集)局長などを歴任し、教科書の編集責任者を務めた。

1887(明治20)年の文部省発行の「尋常小学校読本巻之三」には、保己一が弟子たちに源氏物語の講義をしていた際、風でロウソクの火が消えてしまった。弟子たちがあわてているのを察して、保己一が「目が見えるということは、不便なことですね」と言った有名な逸話が紹介されている。

ヘレンは、同じ講演の中でこの逸話を引用しているので、伊沢が編集したこの教科書の逸話のことも知っていたのではなかろうか。

伊沢は、国立東京盲唖学校の校長も務めた。西洋音楽を日本へ移植した人でもあり、「小学唱歌集」を編纂、東京師範学校や東京音楽学校の校長も歴任した