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塙保己一 ヘレン.ケラー

2010年05月10日 13時13分22秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 

塙保己一 ヘレン・ケラー

病気のため一歳半で、目が見えず、耳も聞こえず、話すこともできなくなり、三重苦に苦しみながらも、ハーバード大学を卒業し、世界中の身体障害者の社会的地位の向上のために一生を捧げた「奇跡の人」、米国のヘレン・ケラー。1937年、一回目の来日で、浦和の埼玉会館で講演した際、次のようなことを話している。

「私は特別な思いを持って、埼玉県にやってきました。それは、私が心の支えとして、また人生の目標としてきた人物が埼玉県出身だったからです」。

この人こそ、「群書類従」666巻を編集・発刊した江戸時代の盲目の大国学者・塙保己一だ。埼玉県内の「県ゆかりの人物」の第一位に選ばれている人物である。

無知とは恐ろしいものだ。最近まで、名前は「はなわほ・きいち」と読むのだろうと思っていたし、ちょっとした図書館ならおいてある「群書類従」の意味も知らず、手にとったこともなかった。

もちろん、「はなわ・ほきいち」と読むのだが、正しい読み方が分かったのは、たまたま、塙という人と接触する機会を得てからだった。

「保己一」の名は埼玉県の出身地に関わりがある。保己一は1746年、埼玉県北部の児玉郡保木野村の農家に生まれた。保木野は後に児玉町、現在は本庄市に編入されている。西側に神流川があり、川を越えれば群馬県だ。

保己一は幼名は寅之助(後に辰之助)、3歳から肝臓病で5歳で失明、12歳で母を失った。15歳でソーメン箱に着替えを詰めて江戸に出て、雨富須賀一(あめとみ・すがいち)いう検校(けんぎょう=盲人の最高位)の率いる盲人の一座に入門、「千弥(せんや)」と呼ばれた。

18歳で衆分という盲人の位に昇進すると出身地の名をとって「保木野一」と改名した。盲人一座では、衆分以上になると「◯◯一」という名をつける習わしがあった。30歳で検校に次ぐ盲人の高い地位「勾当」(武士と同格)に昇進する際、「保己一」に変えた。

「保己」とは、中国の文選(もんぜん)という書物の中にある「己を保ちて百年を休んず」という言葉からとったものだという。百年も長生きして、「群書類従」の編集・出版を成し遂げようという決意を表明したものだった。

勾当になると、性を名乗ることができるので、父の名の荻野(宇兵衛)を称するのが自然だったが、当時名古屋に同姓の平家琵琶の名手がいたので、雨富検校の実家の苗字をもらって、「塙保己一」とした。

それでは「群書類従」とは何か。「叢書」という言葉がある。「同じ分野に関する事柄を同じ形式や体裁に従って編集・刊行した一連の書物」と辞書にある。中国には、「漢魏叢書」などあり、日本でも平安時代、「秘府略」という一千巻の叢書を作ったことがあるが、今では二巻しか残っていないという。

中国の古典に「以類 相従(類をもって、相従う)」という言葉がある。「同じ種類のものは、その種類に従って分けてある」という意味だ。

「群書類聚」とは、「群書(いろいろな書き物)が集めてあり、同じ種類のものは分類してある」という意味になるだろう。「群書類従」とは、国史・国文学を中心とする国学の日本最大の叢書、文献資料集で、今流に言えば、一大データベースと言える。

保己一の生前に本になったのは、正編で、1273点の古い本や書き物が集められ、それが、神祗(じんぎ=神がみ)、帝王、律令、和歌、日記、武家、雑など25部門に分類され、その冊数は目録1冊を含め666冊。

「群書類従」に入れられたものは、「万葉集」や「源氏物語」のような大部で確実に後世に伝えられるものではなく、一般の人からは関心の持たれることは少ないが、文化的価値が高いもの、一巻、二巻からなる地味な零細本や珍本が多かった。

「年中行事秘抄」「皇太神宮儀式帳」などに混じって、「枕草子」「方丈記」「伊勢物語」「土佐物語」などポピュラーなのも入っている。

まだ、活字がない時代なので、山桜の版木に一字一字文字を刻み、それに墨を塗って手刷りするやり方。両面に彫った版木は、両面彫りで17,224枚に上った。

印刷に先立ち、公家や武家、神社、寺院などに秘蔵されている、奈良時代から江戸時代初期までの日記、記録、手紙、歌、物語などの古い本や書き物を探し、貸してもらい、読み、筆写し、写し間違いなどを校閲し、編集する・・・。

版木を作り、印刷して、宣伝、販売まで。多くの協力者を得たといえ、それを指揮したのが保己一で、40年余を費やした。これを盲目の身で成し遂げたのだから、ヘレン・ケラー同様、「奇跡の人」としか呼びようがない。

幕府の援助は得たものの、自らの資材をつぎ込み、多額の借金を重ね、塙家に残ったのは借金の山だった。保己一は、「群書類従」正編の刊行が完了した2年後に76歳で死んだ。

全国の盲人を統括する盲人社会の最高位「総検校」に上り詰めていた。10万石の大名格だった。墓は東京・四谷の愛染院と郷里の保木野にあり、郷里に生家と「塙保己一記念館」がある。