小島と広島と私たち

島爺の倉橋島での農作業と,
広島を中心とした孫たちとのくらし

未だ還らぬ115万柱

2009-12-09 17:41:10 | 広島の生活
 優介からのプレゼント
 忘れられてはいなかった
 
 68年前の12月8日,日本の真珠湾攻撃から太平洋戦争に突入した。この戦争によって,民間人を含め310万人が死亡したとされる。そのうち兵士は210万人,さらにその中の115万柱の遺骨が還らぬままとなっているという。
 その中には私の叔父(父の弟)も含まれている。彼は硫黄島で戦死した。残されてのは遺髪と爪だけだ。遺児は女1人,名古屋に住んでいる。

 その開戦の日に私は生まれた。女の中のただ一人の男でもあるし,めでたいことじゃと言われたらしいが,そのわずか45ヵ月後には敗戦で終結したわけで,その日に生まれた私は,単純に“めでたい”だけの人間になってしまった。
 一緒に食事をと思ったが,と事前に娘は伝えてきていた。孫二人とも流行性感冒で,と。彼らの記憶に残っているのは,この日に自分たちの結婚式を挙げたからに過ぎない。
 かみさんは仕事の関係で外に出ているから,夜半まで一人となる。おまけに,前夜(7日),かみさんの作ってくれていた煮魚を暖めていて真っ黒にしてしまったから,夕食もおぼつかない。
 あのときは,パソコンに夢中で,えらく薄暗いな,ということで気が付いた有様。無水鍋の底にメバルと豆腐がしっかりとくっついているから,今夜もあれをこそぎ取る作業に専念するかと覚悟した。

 そろそろ帰り支度をというときに,長男からの電話。
忘れていたわけではないよ,ここしばらく忙しくて,と。小児を看ているから大変なようだ。また,二人の孫のうち一人と娘が風邪らしい。なに,電話だけで温かくなる。
 まずは,と83円のビールを飲んでいたら藤沢の娘からメールが入ってきた。そして息子からも。まだ帰りの電車らしい。
 仕事を始めたところに孫が行っていいかと聞いてくる。悪いわけがない。簡単に片付けたところに婿殿と,ようやく風邪の治まった二人の孫がケーキを持ってきた。娘は孫から風邪をもらったらしい。

 3人を送り出したところにかみさんから電話。またしかられるかと首をすくめたが,ようやく機嫌を直したらしく,食事に出ようかと聞く。
 近場で簡単に飲んだ。
今日からまた新しい一年が始まる。しかし心してかからないと,年々「何かある」ことが増えているようで心配だ。