イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

米を研ぎながら考える、翻訳の「ED問題」

2009年03月27日 22時44分44秒 | Weblog
家のトイレで道場六三郎さんの本を読んでいたら、Youtubeで「料理の鉄人」を見たくなった(この無意識の連鎖が怖い)。よくできた番組だ。けれん味がたっぷりあって非常にプロレス的な匂いがする。裏にどんな筋書きがあるのかわからない。だけどいいのだ。同番組はアメリカでも人気で、『Iron chef America』というアメリカ版もある。ほとんど日本版と同じ作りなのだけど、全編にヒシヒシと「アメリカナイズ」が感じられて、いい。こっちもとても面白いと思うのだが、Youtubeの向こうの人の書き込みをみると、「本家の日本版のほうが断然いい」というような意見も目にする。そんなものなのだろうか。あくせく時間に追われながら、細かい手作業をする。これは日本人の得意技なのかもしれない。それに、日本では料理人はかなり若いころから修業を積む。15で弟子入りして、30歳のときにはすでにその道15年という寿司職人だってざらにいる。だから番組に登場する料理人は相当にレベルが高い。日本に限らず、料理の世界はどこでもそうなのかもしれないけれど。

日本版では審査員に、料理のプロではないいわゆる芸能人が含まれていることも多かったように思うけど、僕の見た限りアメリカ版では料理研究家とか料理ライターとか、そういったプロばかりで審査員を構成しているようだ。この点に関しては、個人的にはアメリカ版のほうに好感を持った。日本では映画の吹き替えの声優に、声優のプロではないタレントを起用したり、スポーツ番組に芸能人が出てきたりする。僕の印象では、少なくともアメリカではテレビ等で、門外漢をプロフェッショナリズムの現場にひっぱりあげるようなことはあまりないように思える。その辺の線引きがシビアなのだ。まあ、料理については一般人がユーザーなわけだから、誰が意見したっていいわけだけど。ともかく、ここにも翻訳の生きた見本がある(テレビ番組の場合は、翻訳というより、ローカライズと言ったほうが相応しいのかもしれない)。

さらにYoutubeのリンクをたどると、外国人の料理家の人が「How to make sushi」みたいなタイトルの動画で寿司の作り方を説明していた。「米は最初にリンスすること。これが非常に重要です」と彼が言う。「米は炊く前に研ぐものである」と知っていることが、外国では大きな付加価値を持つのだ。

同じrinseでも、「研ぐ」とするか「リンス」とするかでは、ものすごいギャップがあるな――、夕食のしたくで米を研ぎながら、そんなことを考えた。それから、つい最近とある人から無洗米をすすめられたことを思い出した。個人的になんとなく抵抗があって無洗米は使ったことはない。甘栗を剥いた状態で売っているのとか、野菜を切った状態で売っているのに感じるのと同じような、過保護さと不自然さがあんまり好きではないのだ。自分の手や頭を少し使えばできることを放棄してまで、便利さにすがりたくはない。なんて、普段は相当にいろんな便利なモノやサービルにお世話になっているくせに、あることに対しては妙にそんな風に気構えてしまう。若いころは、旅行に行くならパック旅行じゃなくて、自分でスケジュールを組んで行きたいと思っていたのだけど、少し大げさにいえば、そんな感じだ(とはいえ、旅行に関してはパックの良さがわかるようになったので、今度どこかに行くならビッシビシのパックにするだろう)。あんまり環境にもよくないんじゃないかと思っていたのだけど、意外にも、無洗米は水を使わずに洗浄されており、家庭用の排水にとぎ汁を流してしまうこともなく、水の消費量も少なくなるので、エコロジーの観点からみるとむしろ通常の米よりも優れているのだそうだ。

ところで、「無洗米」という言葉は市民権を得ているのであまり疑問には感じていなかったのだけど、よく考えてみると変な日本語だ。「洗わずに済む」、「すでに洗ってある」ことを表すのに、「無」を用いるのは微妙ではないだろうか。「無」では「洗っていない米」という意味にもとれる。これはちょっとおかしい。つまり、たとえば「無洗米」の無と同じ原理を「無農薬の野菜」に適用してみれば、それは「既に誰かが農薬をたっぷりと浴びせかけた野菜」ということになるし、「無神経な私」は「既に誰かに神経を十分に使いすぎたので、もう誰にも神経は使いたくないの私」という意味になるのではないのか。

疑問に思ったので、Wikipediaで調べてみると、やはり名称について問題視する声があるらしい。

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「無洗米」という名称について、NHK総合テレビの『お元気ですか日本列島』および同ラジオ第1の『ラジオほっとタイム』内のコーナー『気になることば』2008年2月27日の放送にて「『既洗米』と呼んだ方がいいのではないか」との意見が紹介された[6]。だが上で述べたように無洗米は研米されて作られるもので、製法により異なるが最も普及しているBG無洗米は水で洗ってあるわけではない。また同番組内では食品関係での接頭辞「無」の用法に着目し、「無着色=生産者が着色を行っていない」、「無農薬=生産者が農薬を使用していない」であることから、「無洗米」は 「生産者が米を洗っていない」といった意味になるのではないかと指摘している。しかし「無」と同様に否定を表す接頭辞「非」や「不」では「非洗米」「不洗米」と印象があまり良くないことなどから、「洗う必要がない」ことを端的に表す表現の難しさも挙げている。
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なるほど。たしかに、「非洗米」、「不洗米」では食欲をそがれる。「不戦敗」と混同される恐れもある(そんなわけないか)。そして、

>「洗う必要がない」ことを端的に表す表現の難しさも挙げている

にも激しく同感する。

翻訳でも、customized ~とか、integrated ~とか、「すでに~された」ということを表す語は、なかなか訳すのが難しい。言いたいことははっきりしてるんだけど、それをぴったり表す言葉がなかなか見つからないのだ。「カスタマイズされた」、「統合された」、とやるのもおかしくはないけど、いかにも翻訳調だから、できれば避けたい。ちょっとモタモタした感じになるし、同じ表現が頻出するようだとうるさく聞こえてしまう。なので、なんとかビシッと名詞で表さなければと、いろいろと工夫しなければならないのだ。こういうとき、訳語として使える「無洗米」みたいな表現がすでにあったら便利なのにと思うわけなのだが、そういうものはめったに存在していておらず、自分で「米を研ぐ」しかないパターンが多い。英語では~edと簡単に表現できる言葉も、日本語に翻訳するのは一筋縄ではいかないのだ。これを、翻訳の「ED問題」と名づけよう。

しかしまあ、米を研ぐというのは不便なようでいて、気分転換にもなるし、手を動かすことでボケ防止にもなる(←みたいなことをいうのはオヤジになった証拠?)。翻訳においても、スマートになれるところは素直にスマートになりつつも、こうした手仕事的な部分も大切にしなければならないとも思う。

そんなわけで、無洗米もいいけど、やっぱり米を研ぐことは人としてとても大切な基本ではないかと、オヤジな私は思ってしまうのである。

ちなみに、この問題についてものすごく深い議論が交わされているページも発見した。いや~勉強になります。よろしければどうぞ

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