金閣、銀閣そして銅閣 大雲院

2010年02月28日 | 日記

大雲院は、京都市東山区にある浄土宗系単立寺院。山号は龍池山。本尊は阿弥陀如来。通常は非公開のため入れない。貞安上人が、正親町天皇から「御池御所(二条烏丸)」の地を賜って、織田信長、織田信忠父子の菩提を祀るために建立したのが由来で、寺号は織田信忠の法名にちなんで「大雲院」とされる。

豊臣秀吉の都市改造政策で四条寺町下ルに移され、より広大な寺域が確保され、火除天満宮を鎮守社にしたといわれる。昭和になって周囲が繁華街となり、島屋京都店増床に伴い、現在の東山区に移転した。

祇園閣は昭和3年に建築された建物で、大倉喜八郎が別邸とし建てた別邸「真葛荘」の一部である。屋根は銅版葺きであるが、これは大倉が金閣、銀閣に次ぐ銅閣として作った為である。祇園祭の鉾を模したもので、設計は平安神宮と同じ伊東忠太。

大倉喜八郎は、日本の実業家。大倉財閥の設立者。明治・大正期の実業界の雄である。新潟県新発田市出身。鉄砲商から身を立て、明治維新後は貿易会社、建設業に転身。化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した。

戊辰戦争、台湾出兵、日清・日露と戦争軍需によって大儲けしたことから死の商人、政商と呼ばれた。軍事関係の需要は三井・三菱を凌いでほとんど大倉組が独占したという。

晩年は公共事業や教育事業には惜しみなく私財を投じた。鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを渋沢栄一らと共に、設立したことでも有名。現東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。(Wikipediaより引用、追記)

 

 

円山公園から長楽館の前を通り、ねねの道への途中に大雲院がある。伽藍は平安・鎌倉の折衷方式といわれる。

山門は通りに面しているが、見たところ端麗で比較的新しい印象を受ける。この周辺には知恩院があるため、知恩院の山門を目にしてから大雲院の山門をみるとさすがに小さく感じる。

通りから目を引くのは、やはり祇園閣である。初めて目にした時は、その形を不思議に思ったものである。確かに鉾に似ているとは感じたが、鉾そのものを模しているとは考えもしなかった。

金閣、銀閣に次ぐ銅閣として意識して作ったようであるが、果たして銅閣としての品格はいかがであろうか。通常は非公開であり、実際に拝観した事はないが、銅閣を意識するのであれば、せめてコンクリート造りは避けてほしかったところである。

祇園閣が建てられている場所は少し高台にあり、眺望はかなりよいようである。機会があれば一度入ってみたいものである。

祇園閣は昭和三年の建設だが、当時の周囲の景観を想像する時、結構物議を呼んだのではないだろうか。しかし、今ではすっかり景観の一部となって溶け込んでいる。

新しいものをうまく取り込み、いつの間にか風景の中のひとつのアイテムとして同化させてしまう。これは京都の包容力なのか、それとも観光客がそれらを育てているものなのであろうか・・・・

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ちょっと寄り道 法善寺

2010年02月25日 | 日記

ブログの名前は京都みてあるきだが、京都の近くには奈良、大阪と長い歴史を持つ都市が多い。然るべく周辺の町も見て歩いている。先日NHKが「藤田まことフランク永井を歌う」の追悼番組を放映している事をたまたま知り視聴した。

この番組は、関西地区のみのオンエアであったようであるが、追悼との意味合いで全国放送となったようである。藤田まこととフランク永井の親交を題材に、フランク永井の大阪物を藤田まことが歌うという番組構成であった。この頃、すでに藤田まことの体調はかなりすぐれない状態であったようである。

大阪では松竹座があるため、道頓堀界隈を歩くのがほとんどであるが、放送中インタビューで法善寺の場面が出ていたので、懐かしさもあってちょっと法善寺へ寄り道である。


法善寺近くには道頓堀川があるが、水はかなり濁りどうひいき目にみても澄んでいるとはいえない。だが、そのぶん周囲の建物は川面によく映りこむ。この情景が道頓堀のひとつの景観となっているのもまた皮肉なものである。
 

さて法善寺であるが、水掛不動尊の前に、本当に小さな構えのお寺があるだけである。この寺が千日寺と呼ばれた事から、その名前をとって通りの名前が千日前となったようである。また、この地区は法善寺の境内と聞いた事があるが、寺構えから考えるとかなり広い面積である事に驚く。

 

昭和の時代には、大阪、それも法善寺周辺を題材とする流行歌が多く発表され、かなりの確立でヒットしていた記憶がある。そのほとんどが都会的なセンスではなく、いわば泥臭いのであるが、それが逆に親しみやすくどこか安心感を与えるのであろう。 

法善寺横町の入り口にさりげなく「大阪ぐらし」の歌碑がある。作詞家の奥様が多くの作品の中から選ばれたものとの事であるが、私もこの歌詞、曲が好きである。しかし、地元の人が多いのか、この歌碑の前で足を止める人はなかった。これ見よがしに置かれていないため、見逃してしまいそうであるが、偶然このような物を見つけると何故か得をしたような気分になれる。

この歌碑のすぐ近くに、ぜんざい屋さんの「夫婦善哉」がある。織田作之助の小説「夫婦善哉」からいただいた屋号である。店の中には織田作之助作品等が展示されている。流行歌の題名にもなっており、ネームバリューの効果であろうか入店する観光客は多い。

私もその一人として参加、ぜんざいをいただいた。二つのお碗が出され中には白玉がひとつずつ入っている。このお碗二つは夫婦を意味しているとの店の方の説明である。大変気さくな方で親しみが持てる女将さんであった。

それにしてもここ数年いい味が増し、これからが楽しみな役者さんを惜しくも亡くしてしまった。

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主なしとて春な忘れそ 北野天満宮

2010年02月23日 | 日記

北野天満宮は京都市上京区にある神社である。通称、天神さん・北野さん。旧社格は官幣中社、二十二社。京都市民からは「てんじんさん」の愛称で呼ばれる。

毎月25日に縁日が開かれ、多くの参拝者や観光客で賑わう。菅原道真を主祭神とし、特に学問の神として知られ多くの受験生らの信仰を集めている。福岡県の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心となっており、当社から全国各地に勧請が行われている。

菅原道真を主祭神とし、相殿に中将殿(道真の長子・高視)と吉祥女(道真の正室)を祀る。

延喜3年(903年)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で歿した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。

右京七条に住む多治比文子という少女に、近江国の神官の幼児である太郎丸に託宣があった。それに基づいて現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。

一条天皇より「北野天満宮天神」の称が贈られる。文安の麹騒動で天満宮が焼け落ちてしまい一時衰退する。天正15年境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が催行された。境内西側に史跡「御土居」がある。(Wikipediaより引用)

 

北野天満宮の境内は想像以上に広い敷地である。菅原道真は牛と縁が深かったようで、鳥居から中門までには、臥牛像が幾つも置かれている。この臥牛像をついついなでてしまうのは私だけではないようで、像には光沢がある。

中門を越えたところにある絵馬がけは、合格祈願の絵馬がほとんどであるが、絵馬堂にはなにやら古めかしい絵馬が並ぶ。

その傷み具合から想像すると、かなりの歳月を経ているようである。なかには首をひねるような置き方の絵馬があり、図柄より置き方の工夫に興味を持ってしまう。しっかりと掛けられた「誠」の絵馬は、新撰組の旗印の文字に使われたと聞き及んだ。


学問の神として知られる天満宮だけに、春先ともなると本殿には受験の成功を願う長い列ができる。大きな本殿の軒には、幾つもの提灯、銅鐸が飾られているが、これが実に印象的である。


本殿の右奥には、文子天満宮があり多治比文子との縁の深さが見て取れる。文子天満宮前でスケッチをされている方をよく目にするが、ここから眺める本殿は周りの景観と整合してとても美しい光景である。文子天満宮は七条の渉成園近くにもあるが、そちらの方は別の機会に取り上げてみる。

天満宮境内は、菅原道真が右大臣から太宰府へ左遷された時に詠んだといわれる「東風吹かば 思いおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」にちなみ、梅で包まれている。

春近し陽光のなか、のんびりと境内を歩けばとても清清しい気分になれる。

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ディジタルコピー? 智積院

2010年02月19日 | 日記

智積院は、京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院である。山号を五百佛山、寺号を根来寺という。本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥である。

智積院は、もともと紀州根来山大伝法院の塔頭であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁(かくばん)が、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、根来山内の学問所であった。

近世に入って、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年根来攻めで、全山炎上した。玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。

関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年、家康は東山の豊国神社の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられて、復興後の智積院の寺号を「根来寺」、山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」とした。

祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。

東大路通りと七条通りのT字路に面して総門が建ち、その先には講堂、大書院、宸殿などが建つ。大書院は桃山城の遺構といわれる。大書院に面した庭園は千利休好みと言われ、国の名勝に指定されている。幕末には、学寮が土佐藩屯所になっている。(Wikipediaから抜粋引用)

 

 

寺院のもつ歴史とは裏腹に、新旧入り交ざり何とも複雑な印象を受ける寺である。金堂と講堂は最近になって建てられたものである。

智積院の売りとなっている長谷川等伯、久蔵作の楓桜図は、収蔵庫と呼ばれる建物に保管されている。収蔵庫という呼名は妙な響きであったが、一般にいわれる宝物館に似たものなのであろう。保管されているものが、楓桜図に関連する襖絵に限られているようなので、このような名前にしているのであろう。

収蔵庫のなかでは、学芸員もどきの方の定期的な襖絵の説明がある。肝心の楓桜図であるが、想像していたよりは相当大きいサイズである。絵の直近よりしげしげと鑑賞される方が多くいたが、私的には少し離れたところから眺めると一段と迫力が増すようである。筆使いを論じるほどのスキルを持ち合わせない者にとっては、やはり全体を見る事ができる距離をとるのが良いようである。勿論撮影は禁止である。

智積院でまず驚いたのは、大書院の襖絵である。桜楓図の複製版が書院全体に広がる。ここでも学芸員もどきの方の説明がされていて、「どうだ!!」と言わんばかりである。しかし、書院全体の構えと比べると、何と表現してよいのか迷ってしまうような妙な雰囲気を感じる。確かに見た目は派手なのだが、しっくりこないのである。




大書院に面した庭は、中国廬山をモデルとした名園。写真のひとつはバチを模ったもの、もうひとつは羅漢さんを模っているとの説明を受けたが、いろいろな教訓が組み込まれているようである。庭にまつわるご高説をしばし拝聴した後、さらに驚く事に出会ってしまう。


撮影禁止と告げられた大書院の奥には、各々の間に文化財クラスの水墨画が展示されている。だが、そのなかの一間の襖絵に堂本印象画伯の何ともハイカラな明るい色彩の近代画が占領している。寂びのなかに一転異彩を放つ光景をいかに捉えるかが問われる。

この襖絵の捉え方については賛否両論あるようであるが、その光景をブログ上でお見せする事ができない。気にかかる方は実見するしかないが、美術センスがない私には否である。

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北野名物 長五郎餅

2010年02月16日 | 日記

天正年間と言うから今から400年あまり前の事である。京都・北野天満宮の縁日になると決まって現れる一人の老人がいた。境内の出店の者に小さな餅(もち)を5、6個売ると去って行く。どこから来てどこへ帰るのか誰も知らない。

薄い餅皮にあんを包んだ上品な餅で、次第に評判になった。ある時、一人が老人に尋ねると「河内屋長五郎」と名乗った。

天正15(1587)年10月、九州平定を終えた豊臣秀吉は北野天満宮の松原で大茶会を催すことになり、市中に高札を掲げて上下の別なく参加を呼びかけた。

長五郎も出店仲間に言われて茶屋を出し、秀吉に餅を献上したところ大層気に入られ、「以後『長五郎餅』と名乗るべし」と命名されたという。

いまも北野下の森に店を構える「長五郎餅本舗」の由来話である。 (長五郎餅本舗から引用)

「名物に美味いものなし」とよく耳にする。

考えてみると地方によって培ってきた文化が異なるように、食文化にも地方、地方で違いがある。氏も育ちも違う者達が一足飛びにご当地の文化に同化しようとする事に無理がある。そこで「名物に美味いものなし」となるのではないだろうか。

しかし、面白いことに菓子類は料理と違いこのいわれが該当しないようである。素直に美味いものは美味く、まずいものはまずいのである。

さて、菓子、甘味処にはあまり興味がないが、話の種にと気が向くと立ち寄ることがある。北野天満宮にある長五郎餅本舗もそのひとつである。長五郎餅は餅の名が付いているが、分類すると和菓子それも饅頭系にあたるのだろか。

 

この長五郎餅、見た目に大変きれいな餅(饅頭)である。当然といえばそれまでであるが、店頭に置かれているディスプレイそのままである。最近はディスプレイと微妙に異なる物もあるので、手元にきた長五郎餅を見て、思わずそのままと少し感激である。

 

餅の名のとおり皮は餅である。皮は厚いのかと思ったところ、かなり薄い餅皮である。中には餡がいっぱい詰まっている。味もよく値段からするとお得感がある。残念だが天満宮の長五郎餅は、平日は開店していないため注意が必要である。

(アップしてしまってから、肝心な事を書くのを忘れて追記:この長五郎餅のお味、美味しいですよ)

 

ところで、饅頭系では出町柳ふたばの豆大福や上賀茂の神馬堂のやきもちが有名である。豆大福とやきもち、この二つの菓子をネット上で検索すると、かなりの量の記事がヒットする。

だが、やきもちで馬堂に勝るとも劣らない絶品を販売している松彌という店がある。やきもちで検索してもあまりヒットしないところをみると、やきもちに関してはいわば穴場的な店であろう。店は到底和菓子店とは思えない構えである。我々が知らないだけで、京都にはこのようなお店が多くあるのであろう。

機会があれば、京都で名の知れている甘味処、「祇園小森」「小石」「都路里」の味の違いにも触れてみよう。

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