大雲院は、京都市東山区にある浄土宗系単立寺院。山号は龍池山。本尊は阿弥陀如来。通常は非公開のため入れない。貞安上人が、正親町天皇から「御池御所(二条烏丸)」の地を賜って、織田信長、織田信忠父子の菩提を祀るために建立したのが由来で、寺号は織田信忠の法名にちなんで「大雲院」とされる。
豊臣秀吉の都市改造政策で四条寺町下ルに移され、より広大な寺域が確保され、火除天満宮を鎮守社にしたといわれる。昭和になって周囲が繁華街となり、島屋京都店増床に伴い、現在の東山区に移転した。
祇園閣は昭和3年に建築された建物で、大倉喜八郎が別邸とし建てた別邸「真葛荘」の一部である。屋根は銅版葺きであるが、これは大倉が金閣、銀閣に次ぐ銅閣として作った為である。祇園祭の鉾を模したもので、設計は平安神宮と同じ伊東忠太。
大倉喜八郎は、日本の実業家。大倉財閥の設立者。明治・大正期の実業界の雄である。新潟県新発田市出身。鉄砲商から身を立て、明治維新後は貿易会社、建設業に転身。化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した。
戊辰戦争、台湾出兵、日清・日露と戦争軍需によって大儲けしたことから死の商人、政商と呼ばれた。軍事関係の需要は三井・三菱を凌いでほとんど大倉組が独占したという。
晩年は公共事業や教育事業には惜しみなく私財を投じた。鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを渋沢栄一らと共に、設立したことでも有名。現東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。(Wikipediaより引用、追記)
円山公園から長楽館の前を通り、ねねの道への途中に大雲院がある。伽藍は平安・鎌倉の折衷方式といわれる。
山門は通りに面しているが、見たところ端麗で比較的新しい印象を受ける。この周辺には知恩院があるため、知恩院の山門を目にしてから大雲院の山門をみるとさすがに小さく感じる。
通りから目を引くのは、やはり祇園閣である。初めて目にした時は、その形を不思議に思ったものである。確かに鉾に似ているとは感じたが、鉾そのものを模しているとは考えもしなかった。
金閣、銀閣に次ぐ銅閣として意識して作ったようであるが、果たして銅閣としての品格はいかがであろうか。通常は非公開であり、実際に拝観した事はないが、銅閣を意識するのであれば、せめてコンクリート造りは避けてほしかったところである。
祇園閣が建てられている場所は少し高台にあり、眺望はかなりよいようである。機会があれば一度入ってみたいものである。
祇園閣は昭和三年の建設だが、当時の周囲の景観を想像する時、結構物議を呼んだのではないだろうか。しかし、今ではすっかり景観の一部となって溶け込んでいる。
新しいものをうまく取り込み、いつの間にか風景の中のひとつのアイテムとして同化させてしまう。これは京都の包容力なのか、それとも観光客がそれらを育てているものなのであろうか・・・・