関西思い出旅日記

きまぐれ旅の徒然です
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五山の上 南禅寺

2010年02月14日 | 日記

南禅寺は、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。山号は瑞龍山。本尊は釈迦如来、開基は亀山法皇、開山は無関普門。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。

南禅寺の建立以前、この地には、後嵯峨天皇が造営した離宮の禅林寺殿があった。この離宮は上の御所と下の御所に分かれ、うち上の御所に建設された持仏堂を南禅院と称した。現存する南禅寺の塔頭・南禅院はその後身である。亀山上皇は法皇となった後、禅林寺殿を寺にあらため、無関普門を開山として、これを龍安山禅林禅寺と名づけた。

建武元年、後醍醐天皇は南禅寺を五山の第一としたが、足利義満は自らの建立した相国寺を五山の第一とするために南禅寺を別格として五山のさらに上に位置づけ、京都五山と鎌倉五山に分割した。

応仁の乱で伽藍をことごとく焼失し、南禅寺の復興が進んだのは江戸時代になって、以心崇伝が入寺してからである。崇伝は徳川家康の側近として、黒衣の宰相と呼ばれた政治家でもあった。

山門は歌舞伎の『楼門五三桐』で石川五右衛門が「絶景かな絶景かな」という名台詞を吐くのが南禅寺山門である。藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したものである。知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに、京都三大門の一つに数えられている。

大方丈は慶長度の御所建て替えに際し、天正年間建設の旧御所の建物を下賜されたもの。大方丈には狩野派の絵師による障壁画があり、襖や壁貼付など計120面が重要文化財に指定されている。

小方丈の障壁画は狩野探幽の作と伝えられるが、作風上からは数名の絵師による作と推測されている。名勝に指定されている方丈前の枯山水庭園は小堀遠州作といわれ、「虎の子渡しの庭」の通称がある。

明治維新後に建設された、当寺の境内を通る琵琶湖疏水水路閣は、今や京都の風景として定着している。(Wikipediaより抜粋引用)

南禅寺というと、やはり京都三大門に数えられる山門が一番先に思い浮かぶ。南禅寺の山門は五間三戸の二重門であるが、まずはその山門を支える柱の太さに驚かされる。
かって山門の二階に上った事もあるが、眺めた景観は石川五右衛門が吐いた「絶景かな絶景かな」の気分にはなれなかった。当時と現在では、その景観にも相当の乖離があるのであろう。

山門をくぐると法堂の前庭になるが、春、夏の緑、秋の紅葉のイメージから一変し、見事な雪の庭となっている。冬枯れの庭はどこか閑散とした印象があるが、これだけ雪の華が咲くとその光景は実に美しい限りである。

法堂から方丈拝観の入口である本坊までの間、南側に琵琶湖疏水を運ぶ水路閣がある。今でこそ風景であるが、禅宗寺院別格の格式を持つ寺院境内の中に、しかも建立の由来からすると、上の御所と下の御所を真っ二つに割るように造られたこの建造物のあり方に、疑問を持つのは私だけではないであろう。

南禅寺が復興していくのは江戸時代、以心崇伝入寺以来である。だが、この以心崇伝、当時南禅寺の禅僧文英清韓が撰文した方広寺の梵鐘の銘文に書かれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字に、家康とともに不吉とし、豊臣を滅亡へと画策した人物でもある。

すなわち南禅寺は徳川側に肩入れした形となる。幕府が倒れると徳川よりの体制が仇となり、新政権のいわば南禅寺に対する嫌がらせとも取れる建造物がこの水路閣ではなかったのか。このように推測すると、なぜ境内の中を貫通しているかに納得がいくのだが、これは勝手な邪推、横道にそれそうなので修正して、方丈へと・・・・

方丈前の枯山水もうっすらと雪化粧。砂の波紋が淡く浮き上がり、虎の子渡しといわれる置石が、雪の中に隠れていきそうである。雪に覆われる本坊の屋根、背後の山並みと石川五右衛門ではないが、私にとってはこちらの方が「絶景かな絶景かな」である。


方丈には狩野派絵師の襖絵が多数保存されているが、撮影禁止のため自身の目に焼き付けておくしかない。なかでも興味深いのは、虎の柄が一部豹柄になっている事である。当時の絵師は虎など見た事がなく、想像して描いたのでこの様な柄になったと聞き及んだが、真偽は定かでない。

こちらは小方丈庭園である如心庭。庭石の配置は「心」の字に配されているというが、蓮華寺同様に「心」の字が見えてこない。しかし、いかにも禅宗らしい落ちついた雰囲気のお庭である。

これだけの歴史と格式がある寺院であると、その寺宝も多いのであろうが特別拝観時以外は見る事かなわず、府外の者にとってその機会は容易に作れない。

法難の寺 安楽寺

2010年02月12日 | 日記

住蓮山安楽寺は、鎌倉時代の始め浄土宗元祖法然上人の弟子、住蓮房・安楽房が鹿ケ谷草庵を結んだのが始まりである。

当時の仏教は、貴族仏教とも言われたように権力者や貴族たちだけのものであった。ところが法然上人は、末法の時代にあって、すべての人は平等であり、すべての人は「南無阿弥陀仏」に救われると説いたので、新興階級の武士や農民、あるいは救いの対象から漏れていた女性たちに広く受け入れられ、念仏仏教が大変な勢いで盛んになった。

元久元年、北嶺の僧侶が専修念仏停止を訴えた。これに対し、法然上人は七箇条制誡を門徒たちに示し、念仏の自粛戒慎を守る門徒の連署を座主に提出した。これが「元久の法難」である。

建永元年、上皇が紀州熊野へ行幸の際に、一日暇をもらった松虫姫、鈴虫姫は、清水寺に参拝し、その帰りすがら法然上人の説法を聞き、真の人間解放の道は、阿弥陀仏の絶対他力に求めるほかないと自覚した。

御所に戻ってからも、法然上人の説法が忘れられず、両姫は密かに申し合わせて夜更けに御所を忍び出て、鹿ケ谷草庵を訪れ出家する。

このことを知った上皇は激怒し、住蓮房を近江国馬渕において、安楽房を京都六条河原において打ち首の刑に処した。専修念仏の指揮者である法然上人を讃岐国に流罪にし、弟子の親鸞聖人を越後国に流罪の刑に処した。これを「建永の法難」という。

住蓮房・安楽房の亡き後、鹿ケ谷草庵は荒廃したが、流罪地から帰京し法然上人が両上人の菩提を弔うために一寺を建立し、住蓮山安楽寺と名付け、両上人の追善の寺とした。(Wikipediaより抜粋引用)

 

 

法然院から民家がまばらに建つ寂びた道を、南へと下がって行くと安楽寺がある。通常、一般拝観ができず萱葺の門前にはいつも柵が置かれており、立ち入る事ができない。門前を通る度に気にかかる寺院のひとつであるが、いまだ拝観ができないでいる。

 

七月二十五日のかぼちゃ供養の様子はテレビ等で流される事もあるが、ほんの数秒程度で寺院の中の様子は分からない。

かぼちゃというと秋のイメージがあるが、安楽寺のかぼちゃ供養は真夏に行われている。かぼちゃを食した効用は無病息災のようで、江戸時代から続く行事のようである。

このかぼちゃ、興味が有ったのでどの様なものか調べてみると、ひょうたんの形をしており、よく目にするまるい形のもではない。このかぼちゃのルーツは津軽の菊座かぼちゃとの事である。

さて、時期が冬であるので安楽寺の雪景色であるが、例によって門からは入る事ができない。そのため門の外から見る事ができる参道の前庭の数枚しかない。

門外からみる庭は、寺院創建に由来する大きな出来事があったとは、とても想像できないほど実に静かな佇まいである。

 

通りから見かける静観な門構えに魅かれ、いつも石段をあがっては庭のうつろいを眺めてしまう。


雪の勅使門 曼殊院

2010年02月10日 | 日記

曼殊院は京都市左京区一乗寺にある天台宗の仏教寺院である。山号はなし。本尊は阿弥陀如来、開基は是算である。竹内門跡とも呼ばれる門跡寺院であり、青蓮院、三千院(梶井門跡)、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、天台五門跡の1つに数えられる。国宝の黄不動画像や曼殊院本古今和歌集をはじめ、多くの文化財を有する。

他の天台門跡寺院と同様、最澄の時代に比叡山上に草創された坊(小寺院)がその起源とされる。曼殊院は平安時代以来、近世末期に至るまで北野神社(現・北野天満宮)と関係が深く、歴代の曼殊院門主は北野神社の別当を兼ねていた。

明応4年頃、伏見宮貞常親王の息で後土御門天皇の猶子である大僧正慈運法親王が26世門主として入寺して以降、曼殊院は代々皇族が門主を務めることが慣例となり、宮門跡としての地位が確立した。

曼殊院を東山山麓の現在地に移し、寺観を整えたのは29世門主の良尚法親王であった。曼殊院の現在地への移転は明暦2年のことで、現存する大書院(本堂)、小書院などはこの時のものである。良尚法親王は桂離宮を造営したことで名高い八条宮智仁親王の第二皇子であり、天台座主(天台宗最高の地位)を務めた仏教者であるとともに茶道、華道、香道、和歌、書道、造園などに通じた教養人であり、当代文化に与えた影響は大きかった。

主要な建物としては玄関、大書院、小書院、庫裏、護摩堂などがある。中心になる仏堂はなく、本尊は大書院の仏間に安置されている。枯山水庭園は小堀遠州の作といわれる。小書院は大書院と同時期の建築で寄棟造、?葺きである。東南側に八畳の「富士の間」、その北に主要室である「黄昏の間」がある。黄昏の間の床脇の棚は多種類の木材を組み合わせたもので「曼殊院棚」として知られる。

小書院の北側には前述の二畳の茶立所とは別の茶室が付属し、「八窓席」の名で知られる。八窓席は大書院・小書院と同時期の建築と考えられる。躙口上の連子窓は虹のような影が生じることから「虹の窓」と呼ばれて名高い。(Wikipediaより抜粋引用)

 

 

京都では積雪となってもすぐに溶けてしまうのであろう。そのためか街中では冬タイヤの装着習慣を持たないようである。降雪のなか、曼殊院道で数台のタクシーと行き違ったが、冬タイヤを装着している車は1台だけであった。とても怖い状況である。

雪の京都観光は、府外の者にとって願ってもない絶好の機会であるが、時にはその雪が仇となる。

私にとって曼殊院は、初めて訪れた時の印象がいまでも強く残っている。当時曼殊院には幽霊の掛軸があったのだが、現在その掛軸はない。この掛軸話は、もともと個人所有のものであり、返却要望があったためにお返しをしたようである。

また、曼殊院の売店では版画が販売されている。曼殊院の売店には版画の絵葉書が売られている。そのなかの雪の勅使門を見て、機会があれば是非一度実見したいものだと思っていた。

十数年越に絶好の機会に恵まれたのだが、強い降雪のため道路はみるみる積雪状態となった。

これ以上の走行はリスクが高くなると思い途中で諦めかけたが、せっかくの機会との事で無理をしてタクシーが行ってくれた。雪のため参道の緩やかな坂をタクシーが上れず、チエーンを装着してようやく勅使門までたどりついた。



しかし降雪の状況からして、長居はできず曼殊院内の拝観は諦めざるを得なかった。

ゆっくりと時間をかけ雪の勅使門を眺める事はできなかったのだが、長年の思いがかなったのは実にうれしい。


街中のランドマーク 八坂の塔

2010年02月09日 | 日記

法観寺は臨済宗建仁寺派の寺院。山号は霊応山。観音霊場として知られる清水寺の近隣に位置する。街中にそびえ立つ五重塔は通称「八坂の塔」と呼ばれ、周辺のランドマークとなっている。境内は狭く、塔以外に目だった建築物がないことから、「八坂の塔」は、寺自体を指す通称ともなっている。

伝承によれば、当寺の五重塔は聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされ、その際、仏舎利三粒を収めて法観寺と号したという。聖徳太子創建との伝承は文字通りに受け取ることはできないが、平安京遷都以前から存在した古い寺院であることは確かとされており、朝鮮半島系の渡来氏族・八坂氏の氏寺として創建されたという見方が有力である。

幾度か焼失したがその都度再建されている。現在の塔は室町時代に足利義教により再建されたものである。夢窓疎石の勧めにより足利尊氏が全国に安国寺、利生塔を建てたが、都の利生塔としてはこの塔を充て仏舎利を奉納した。

戦国時代には、地方から上洛した大名が当寺に定紋入りの旗を掲げることによって、誰が新しい支配者・天下人になったかを世人に知らせたという。

五重塔は高さ49mで東寺、興福寺の五重塔に次ぐ高さをもつ純和様、本瓦葺の建築である。中心の礎石は創建当初のものが残っておりそのまま使われている。塔の中は公開されることもあり礎石の上の心柱や諸仏を見ることができる。また階段を二層目まで登ることもでき窓から京の町並みを眺望できる。(Wikipediaより抜粋引用)

 

五重塔や三重塔は、本来釈迦の墳墓として建てられたものであるが、その美しく見事な建造美は宗教を抜きにして心を惹きつける。遠くに塔を見る時、京都を一層実感する。

 

京都市には五重塔が五基あるといわれる。東寺の五重塔、仁和寺の五重塔、醍醐寺の五重塔、そして記事にしている法観寺の五重塔で四基である。この他の一基は、その気にならなければ見る事ができないが、興味のある方は探してみてください。

さて、八坂の塔であるが、いかに周囲のランドマークといっても、近代の都市開発で建物の陰になり、いまでは塔の近辺でなければ見る事ができない。

清水坂や高台寺から見え隠れする八坂の塔、産寧坂からの八坂の塔と、その存在感はいたって大きい。私の頭では、五重塔を目にすると条件反射のように、五重塔イコール京都という思考回路ができあがっているようである。

私は八坂の塔を参道へとつながる八坂通りから眺めるのが好きである。八坂通りから一歩一歩進むにつれ、その度に塔の姿がどんどん大きくなってくる臨場感がたまらなのである。

八坂の塔の風情は、京情緒を感じさせるためかよくテレビドラマのバックシーンとして使われる。最近では参道の町そのものと、八坂の塔をうまく背景としたドラマに2004年NHKで放映された「恋する京都」がある。先斗町の芸妓を主人公とし、京都の行事・名所をうまく挿し込んだドラマであったのを思い出した。


雪の庭園 三千院

2010年02月07日 | 日記

三千院は天台三門跡の中でも最も歴史が古く、最澄が延暦七年、東塔南谷(比叡山内の地区名)に自刻の薬師如来像を本尊とする円融房を開創したのがその起源という。円融房のそばに大きな梨の木があったため、後に梨本門跡の別称が生まれた。

貞観二年、清和天皇の命により、承雲和尚が比叡山の山麓の東坂本(現・大津市坂本)に円融房の里坊を設けた。この里坊を円徳院と称し、山上の寺院を円融房と称したという説と、円徳院と円融房は別個の寺院だとする説とがある。

元永元年、堀河天皇第二皇子(第三皇子とも)の最雲法親王が入寺したのが、当寺に皇室子弟が入寺した初めである。以後、歴代の住持として皇室や摂関家の子弟が入寺し、歴史上名高い護良親王も入寺したことがある。

坂本の円融房には加持に用いる井戸(加持井)があったことから、寺を「梶井宮」と称するようになったという。最雲法親王は保元元年、天台座主に任命された。同じ年、比叡山の北方の大原に梶井門跡の政所が設置された。

大原は古くから貴人や念仏修行者が都の喧騒を離れて隠棲する場として知られていた。藤原氏の権力が絶大であった当時、本来なら皇位を継ぐべき第一皇子である惟喬親王は、権力者藤原良房の娘・藤原明子が産んだ清和天皇に位を譲り、自らは出家して隠棲したのであった。

明治維新の際、当時の門跡であった昌仁法親王は還俗して新たに梨本宮家を起こし、公家町の寺院内にあった仏像、仏具類は大原の政所に送られた。明治四年、大原の政所を本坊と定め「三千院」と改称した。「三千院」は梶井門跡の仏堂の名称「一念三千院」から取ったものである。

正門にあたる境内南側の朱雀門は常時閉じられており、西側の御殿門から入る。城郭を思わせる寺周囲の石垣、白い土塀、門構えなどが門跡寺院の風格を示している。境内北側には宸殿、客殿とそれらを囲む有清園、聚碧園と呼ばれる池泉回遊式庭園がある。南側は、瑠璃光庭と呼ばれる杉苔でおおわれた庭園の中に往生極楽院が建つ。(Wikipediaより抜粋引用)

 

 

今回の三千院は、雪に覆われた庭が主である。三千院には聚碧園、有清園そして瑠璃光庭と呼ばれる庭がある。先にも書いたが最近になって大きく様変わりした客殿の広縁に広がるのが聚碧園である。聚碧園も十数年前に台風の被害を受け、残念な事に昔の面影を一部失ってしまった。

 

雪の庭木が水面に映る聚碧園を想像していたが、雪の降りが強いのであろう水面は実に重い感じである。雪が溶けきらず、まるで大きな麩が水面に覆い被さっているような印象である。さりとて、そこに広がる光景は期待を損なうものではない。まさに冬のうつろいに見せる聚碧園の一瞬の表情を垣間見る事ができた。

 

聚碧園には冬でも凍らないといわれる華厳音愛の手水鉢があるが、見るところ流水を使っている。流水が凍るためには氷点下の気温がかなりの日数続かなければならない。京都にあって、いかに寒い土地柄といえどもこのうたい文句にはすこし首をかしげる。逆にそれだけ寒いところである事を強調しているとも考えられる。

 

宸殿の前に広がるのは瑠璃光庭である。夏場には苔で覆われ、その様が見事でありよく観光パンフレットで目にするお庭である。だが、雪ともなるとさすがに苔による演出はできない。そこで存在感を出しているのは、杉木立や童地蔵である。

 

雪の木立はモノトーンの世界を作り出し、粉雪が被さる童地蔵は見る人の心の在りようで、如何様にも変幻するであろう。



 

冷えきったモノトーンの世界で、赤の一輪が一瞬心を温める。

 

春の桜、五月の新緑、夏の祭、秋の紅葉と京都には、多彩な表情がある。人によってはひとつき毎に表情を変える町だともいう。しかし、やはり雪の京都には別格の魅力がある。