南禅寺は、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。山号は瑞龍山。本尊は釈迦如来、開基は亀山法皇、開山は無関普門。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。
南禅寺の建立以前、この地には、後嵯峨天皇が造営した離宮の禅林寺殿があった。この離宮は上の御所と下の御所に分かれ、うち上の御所に建設された持仏堂を南禅院と称した。現存する南禅寺の塔頭・南禅院はその後身である。亀山上皇は法皇となった後、禅林寺殿を寺にあらため、無関普門を開山として、これを龍安山禅林禅寺と名づけた。
建武元年、後醍醐天皇は南禅寺を五山の第一としたが、足利義満は自らの建立した相国寺を五山の第一とするために南禅寺を別格として五山のさらに上に位置づけ、京都五山と鎌倉五山に分割した。
応仁の乱で伽藍をことごとく焼失し、南禅寺の復興が進んだのは江戸時代になって、以心崇伝が入寺してからである。崇伝は徳川家康の側近として、黒衣の宰相と呼ばれた政治家でもあった。
山門は歌舞伎の『楼門五三桐』で石川五右衛門が「絶景かな絶景かな」という名台詞を吐くのが南禅寺山門である。藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したものである。知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに、京都三大門の一つに数えられている。
大方丈は慶長度の御所建て替えに際し、天正年間建設の旧御所の建物を下賜されたもの。大方丈には狩野派の絵師による障壁画があり、襖や壁貼付など計120面が重要文化財に指定されている。
小方丈の障壁画は狩野探幽の作と伝えられるが、作風上からは数名の絵師による作と推測されている。名勝に指定されている方丈前の枯山水庭園は小堀遠州作といわれ、「虎の子渡しの庭」の通称がある。
明治維新後に建設された、当寺の境内を通る琵琶湖疏水水路閣は、今や京都の風景として定着している。(Wikipediaより抜粋引用)
南禅寺というと、やはり京都三大門に数えられる山門が一番先に思い浮かぶ。南禅寺の山門は五間三戸の二重門であるが、まずはその山門を支える柱の太さに驚かされる。
かって山門の二階に上った事もあるが、眺めた景観は石川五右衛門が吐いた「絶景かな絶景かな」の気分にはなれなかった。当時と現在では、その景観にも相当の乖離があるのであろう。
山門をくぐると法堂の前庭になるが、春、夏の緑、秋の紅葉のイメージから一変し、見事な雪の庭となっている。冬枯れの庭はどこか閑散とした印象があるが、これだけ雪の華が咲くとその光景は実に美しい限りである。
法堂から方丈拝観の入口である本坊までの間、南側に琵琶湖疏水を運ぶ水路閣がある。今でこそ風景であるが、禅宗寺院別格の格式を持つ寺院境内の中に、しかも建立の由来からすると、上の御所と下の御所を真っ二つに割るように造られたこの建造物のあり方に、疑問を持つのは私だけではないであろう。
南禅寺が復興していくのは江戸時代、以心崇伝入寺以来である。だが、この以心崇伝、当時南禅寺の禅僧文英清韓が撰文した方広寺の梵鐘の銘文に書かれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字に、家康とともに不吉とし、豊臣を滅亡へと画策した人物でもある。
すなわち南禅寺は徳川側に肩入れした形となる。幕府が倒れると徳川よりの体制が仇となり、新政権のいわば南禅寺に対する嫌がらせとも取れる建造物がこの水路閣ではなかったのか。このように推測すると、なぜ境内の中を貫通しているかに納得がいくのだが、これは勝手な邪推、横道にそれそうなので修正して、方丈へと・・・・
方丈前の枯山水もうっすらと雪化粧。砂の波紋が淡く浮き上がり、虎の子渡しといわれる置石が、雪の中に隠れていきそうである。雪に覆われる本坊の屋根、背後の山並みと石川五右衛門ではないが、私にとってはこちらの方が「絶景かな絶景かな」である。
方丈には狩野派絵師の襖絵が多数保存されているが、撮影禁止のため自身の目に焼き付けておくしかない。なかでも興味深いのは、虎の柄が一部豹柄になっている事である。当時の絵師は虎など見た事がなく、想像して描いたのでこの様な柄になったと聞き及んだが、真偽は定かでない。
こちらは小方丈庭園である如心庭。庭石の配置は「心」の字に配されているというが、蓮華寺同様に「心」の字が見えてこない。しかし、いかにも禅宗らしい落ちついた雰囲気のお庭である。