雪の勅使門 曼殊院

2010年02月10日 | 日記

曼殊院は京都市左京区一乗寺にある天台宗の仏教寺院である。山号はなし。本尊は阿弥陀如来、開基は是算である。竹内門跡とも呼ばれる門跡寺院であり、青蓮院、三千院(梶井門跡)、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、天台五門跡の1つに数えられる。国宝の黄不動画像や曼殊院本古今和歌集をはじめ、多くの文化財を有する。

他の天台門跡寺院と同様、最澄の時代に比叡山上に草創された坊(小寺院)がその起源とされる。曼殊院は平安時代以来、近世末期に至るまで北野神社(現・北野天満宮)と関係が深く、歴代の曼殊院門主は北野神社の別当を兼ねていた。

明応4年頃、伏見宮貞常親王の息で後土御門天皇の猶子である大僧正慈運法親王が26世門主として入寺して以降、曼殊院は代々皇族が門主を務めることが慣例となり、宮門跡としての地位が確立した。

曼殊院を東山山麓の現在地に移し、寺観を整えたのは29世門主の良尚法親王であった。曼殊院の現在地への移転は明暦2年のことで、現存する大書院(本堂)、小書院などはこの時のものである。良尚法親王は桂離宮を造営したことで名高い八条宮智仁親王の第二皇子であり、天台座主(天台宗最高の地位)を務めた仏教者であるとともに茶道、華道、香道、和歌、書道、造園などに通じた教養人であり、当代文化に与えた影響は大きかった。

主要な建物としては玄関、大書院、小書院、庫裏、護摩堂などがある。中心になる仏堂はなく、本尊は大書院の仏間に安置されている。枯山水庭園は小堀遠州の作といわれる。小書院は大書院と同時期の建築で寄棟造、?葺きである。東南側に八畳の「富士の間」、その北に主要室である「黄昏の間」がある。黄昏の間の床脇の棚は多種類の木材を組み合わせたもので「曼殊院棚」として知られる。

小書院の北側には前述の二畳の茶立所とは別の茶室が付属し、「八窓席」の名で知られる。八窓席は大書院・小書院と同時期の建築と考えられる。躙口上の連子窓は虹のような影が生じることから「虹の窓」と呼ばれて名高い。(Wikipediaより抜粋引用)

 

 

京都では積雪となってもすぐに溶けてしまうのであろう。そのためか街中では冬タイヤの装着習慣を持たないようである。降雪のなか、曼殊院道で数台のタクシーと行き違ったが、冬タイヤを装着している車は1台だけであった。とても怖い状況である。

雪の京都観光は、府外の者にとって願ってもない絶好の機会であるが、時にはその雪が仇となる。

私にとって曼殊院は、初めて訪れた時の印象がいまでも強く残っている。当時曼殊院には幽霊の掛軸があったのだが、現在その掛軸はない。この掛軸話は、もともと個人所有のものであり、返却要望があったためにお返しをしたようである。

また、曼殊院の売店では版画が販売されている。曼殊院の売店には版画の絵葉書が売られている。そのなかの雪の勅使門を見て、機会があれば是非一度実見したいものだと思っていた。

十数年越に絶好の機会に恵まれたのだが、強い降雪のため道路はみるみる積雪状態となった。

これ以上の走行はリスクが高くなると思い途中で諦めかけたが、せっかくの機会との事で無理をしてタクシーが行ってくれた。雪のため参道の緩やかな坂をタクシーが上れず、チエーンを装着してようやく勅使門までたどりついた。



しかし降雪の状況からして、長居はできず曼殊院内の拝観は諦めざるを得なかった。

ゆっくりと時間をかけ雪の勅使門を眺める事はできなかったのだが、長年の思いがかなったのは実にうれしい。

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