観光客に写経? 苔寺part2

2010年05月29日 | 日記

特別名勝及び史跡。夢窓疎石の作庭で、上段の枯山水と、下段の池泉回遊式庭園の2つから成っていた。境内北方には上段の枯山水庭園の石組みが残り、この部分には夢窓疎石当時の面影が残っていると思われる。今日、西芳寺庭園としてよく知られるのは苔の庭で、木立の中にある黄金池と呼ぶ池を中心とした回遊式庭園である。

 

山麓に位置する地形の庭園構成を池と、その上の山の斜面を利用した禅堂の庭とに分けまたこの禅堂より山に登る道があって、頂上に縮遠亭という休憩所があった。頂上からは桂川周辺を展望しようとし、池辺の2層の舎利殿からは庭園を見下ろそうとする構想で、両者は同一の考えから出た、立体的な構想力を示したものであるとされる。

 

池には朝日島、夕日島、霧島と呼ぶ3つの島があり、小島には白砂が敷かれ松が植えられ、池の周囲を埋め尽くす100種類以上といわれる苔は夢窓疎石の時代からあったものではなく、今のような苔庭になったのは江戸時代も末期のことといわれる。

 

池の周辺には2層の舎利殿のほかに、釣寂庵、湘南亭、潭北亭、貯清寮、邀月橋、合同船があった。広さに比して建築的要素の多い庭といえるがこの邀月橋は亭をもった亭橋で、これを渡ると長鯨にのって大海に浮かんだようだといわれた。向上関より石段を上がった所に指東庵という禅堂があり、この山腹に巨石を組み、滝を象徴している。(Wikipediaより引用)

 

 

写経(こいうのを終わらすのは非常に速い)をはじめとする宗教行事を終えて、有名をはしている苔の庭へと入る。ほとんどの方がまだ本堂の中なので、人影がなく庭は独占状態である。

 

苔の色は真夏のような青々とした色にはまだ至らないが、新緑に包まれる庭はまことに見事なものである。苔を傷めないためであろう、見学順路にはしっかりと石が敷かれ歩く場所が確保されている。





***少庵堂***
 

***湘南亭***

庭の中には、ほぼ等間隔に距離で少庵堂、湘南亭、潭北亭といった3つの茶室がある。なかでも重要文化財とされる湘南亭は、しっかりと整備されているようである。

 

まずは心字池を中心とする池泉回遊式の庭であるが、驚くほど広い面積である。その面積全体が苔でおおわれている。池と新緑のコラボレーションがとてもきれいである。





 

向上関を通ると庭は、池泉回遊式から枯山水へとなり石段の多い庭へと変わる。しかし、ここでも庭は苔に覆われているが、指東庵あたりから枯山水独特石組があり、自然の木の根を利用した庭模様となる。

 

***向上関***

案内には拝観時間は2時間と書かれていたが、宗教行事を考えると庭を見る時間はおおよそ1時間と少しの時間である。この面積の庭をゆっくりと鑑賞しようとすると時間不足かもしれない。

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観光客に写経? 苔寺part1

2010年05月27日 | 日記

西芳寺は、京都市西京区松尾にある臨済宗の寺院。一般には通称の苔寺で知られる。山号を洪隠山と称する。本尊は阿弥陀如来、開山は行基、中興開山は夢窓疎石である。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。

 

寺伝では今、西芳寺のある場所は聖徳太子の別荘であったものを、奈良時代の僧・行基が寺にしたもので、当初は「西方寺」と称し、阿弥陀如来を本尊とする法相宗の寺であったという。その後、空海、法然などが入寺したと寺伝には伝える。こうした寺伝は額面どおり受け取ることはできないが、何らかの前身寺院があったものと思われる。

 

近くにある松尾大社の宮司藤原親秀(ちかひで)は、暦応2年(1339年)当時の高僧であり作庭の名手でもあった夢窓疎石を招請して、すっかり荒れ果てていたこの寺を禅寺として再興した。もとの寺名「西方寺」は、西方極楽浄土の教主である阿弥陀如来を祀る寺にふさわしい名称であるが、夢窓疎石はこれを「西芳寺」と改めた。「西芳」は「祖師西来」「五葉聯」という、禅宗の初祖達磨に関する句に由来する。

 

西芳寺は応仁の乱で焼失。江戸時代には2度にわたって洪水にも見舞われて荒廃した。元は枯山水であった荒廃した庭園が苔でおおわれるのは江戸時代末期に入ってからのようである。すぐそばに川が流れる谷間、という地理的要因が大きいとされる。

 

西芳寺はかつては誰でも参観できる観光寺院であったが、1977年7月からは一般の拝観を中止し、往復はがきによる事前申し込み制となっている。単なる観光や見学ではなく写経などの宗教行事に参加することが条件となっている。(Wikipediaより引用)



世界文化遺産であるこのお寺、拝観をするためには事前の申込みが必要である。そのためか開門時間になっても待行列が出来るようなことはない。

 

京都の観光寺院としては、庭の苔でかなり有名であるが私としては初めての拝観であった。いままで訪れなかったのには特別な理由はなく、単に事前申込みが面倒なだけであった。

 

まず驚いたのは、入口が頑丈な鉄の門扉で閉じられていたことである。事前申込みに書かれている時間になると、お寺の方が現れ申込書を確認後中へと入れてくれる。


*****総門*****
 

いままでの寺院と勝手が違い、なんとなく違和感を覚える。ところでこのお寺の檀家さんは、どこからお参りに入るのだろうと余計な事を思ってしまう。

 

苔寺の代名詞で知られる西芳寺であるが、簡単にその苔に包まれた庭を見せてはくれない。

まずは写経をはじめとする、宗教儀式を終えなければならない。

 



*****本堂への参道*****

ただこの儀式、観光客相手に本当に必要なものなのであろうか。写経はともかく坐禅和讃まで行うのはいかがなものか。罰あたりであるが、しまいには何か滑稽にみえてきてしまうのである。


*****本堂*****

 

しかしこちらは見せていただくという、なんとも弱い立場である。お寺のご慈悲の行いに逆らうわけにはいかない。


*****苔の庭へ*****
 

私が苔寺を訪れたのは5月中であるが、少々時期的に早いようである。6月から7月頃になると苔はその輝きを増し、緑の絨毯に包まれたようになるのは容易に想像できる。

 

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静寂の魅力 地蔵院(竹の寺)

2010年05月20日 | 日記

地蔵院は、京都市西京区にある臨済宗系の単立寺院。山号は衣笠山。本尊は地蔵菩薩。周囲を竹林で囲まれていることから竹の寺の通称で知られる。一休宗純は幼少時、この寺で修行したと伝えられる。

 

この寺は、1368年(応安元年)、室町幕府管領を務めた武将細川頼之によって創建された。頼之は碧潭周皎(へきたんしゅうこう、宗鏡禅師)に帰依して出家した。当寺の実質的な開山は碧潭周皎であるが、碧潭は法兄である夢窓疎石を勧請開山としている。

 

南北朝時代には勅願寺となって寺運も興隆したが、応仁の乱の兵火により伽藍を焼失し寺運も衰えた。江戸時代中期に中興され、江戸期には天龍寺に属した。もとは臨済宗に属していたが、1968年(昭和43年)に独立して単立寺院となった。(Wikipediaより引用)

 

 

京都には同名のお寺が少なくない。地蔵院という名をもつお寺も同じである。ひとつは北野天満宮近くにある別名椿寺と呼ばれるお寺、そして今回取り上げるのは西山にある別名竹の寺と呼ばれるお寺である。

 

地蔵院は世界文化遺産である苔寺の近くにあり、苔寺側からも行くことができる。少し小高い丘を登ることになるが、分かりやすく距離もそれほどない。

 

一方、通常の道路から向かうとなると、かなり入り組んだ道筋であり道幅も狭く、本当に地蔵院に辿り着くのだろうかと心配になるような道である。

 

別名竹の寺と呼ばれるこのお寺、その名のごとく竹林に囲まれ参道は実に美しい風情を漂わす。いわゆる観光寺院のような派手さはないが、どこかしら懐かしさがすっと心に入り込んでくる空気感を持っている。

 

 

参道である竹林の奥に、まず本堂のみが佇み周囲に建物はない。この孤立して立つ本堂が、周りの景観に溶け込み逆に風情を増しているようである。

 

本堂から少し離れて方丈があるが、方丈の前庭は十六羅漢の庭として知られているようである。十六羅漢というが、実際に羅漢が置かれているわけではなく、置石を羅漢に見立てるのである。しかし私のような凡人には悲しいかな庭の凄さがよく分からない。十六羅漢の庭は撮影禁止のため絵はない。

 

ただ方丈の古さや佇まいは、やはりどこか心に響いてくるものがある。古寺巡礼(私はただの物見遊山だが)はこうでなくてはならない。

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大田神社のカキツバタ

2010年05月15日 | 日記

今日の京都は好天に恵まれ、葵祭が無事に行われたようである。ご存知かと思うが、葵祭は必ず行われるものではなく天候等により中止の例もあるわけです。

 

葵祭については前回触れたので、今回は折角上賀茂神社まで足を運んだのであれば、すぐ近くの大田神社に行かないてはない。

 

大田神社は、上賀茂神社の境外摂社で、かつては恩多社と呼ばれた事もあり芸能上達と長寿のご利益があるとされている。

もとは渡来系の先住民により祀られたようで、その歴史は上賀茂神社よりも古く農耕神と考えられている

 

普段はとてもマイナーな神社であるため、殆ど参拝者の姿を見ることはない。古い歴史をもつこの神社がマイナーなのは少し残念である。本殿へと続く長めの参道は、緑に囲まれた落ち着いた風情を漂わす。

 

しかし葵祭の時期だけは別で上賀茂神社からも近く、この時期は境内に広がる池(大田の沢)にカキツバタの群生が開花するため多くの人で賑わう。

 

このカキツバタの群生は国の天然記念物で、葵祭の見物と兼ねて訪れると一石二鳥といったところである。



 

池自体は京都がまだ海であったころの名残の沼地であったとされる。大田神社が創建以来この地を離れたことがないとされているため、資料的にもかなり貴重な池といえるだろう。

 

池の水は裏山からの湧水であったようだが、昨今の都市開発により湧水が枯れ始め最近では井戸水などを使っているようである。
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私が見た葵祭 part2

2010年05月13日 | 日記

堺筋門からでた行列は河原町通りを北上、下鴨神社を目指しその後加茂街道を経て最終到着地の上賀茂神社へと至る経路をたどる。

 

行列の初めの目的地である下鴨神社の境内は、まさに縁日といった雰囲気であった。最終の目的地である上賀茂神社に向かうまでの間、下鴨神社では様々な儀式が行われる。

 

なかでも大勢のひとが集まるのは走り馬のようである。境内に作られた馬場を馬が駆け抜ける様はなかなか勇壮である。葵祭は流鏑馬、走り馬と馬が活躍する祭のようである。牛はもっぱら牛車を引くのに専念する。もっとも走り牛を想像してみてもあまり様にはならない。



 

下鴨神社、上賀茂神社では、それぞれに社頭の儀が行われる。この社頭の儀は一般の人でも見る事ができるようで、当日券なるものが販売されていた。券のお値段は5,000円、少し考えざるを得ない料金設定。見物と書いたのは儀式自体に参列できるものではないであろうと思うからである。

 

京都の三大祭で、古い歴史をもつ祭典儀式に、物見遊山の人たちが飛入り参列する事など考えられないからである。よもや気軽に参列する事ができても、思いもよらぬ事態に遭遇する可能性がある。府外の常識、京都の非常識といった事は、古いしきたりを受け継ぐ京都において考えられない事ではない。

 

下鴨神社で社頭の儀を終え一息入れた後、行列は次の目的地である上賀茂神社へと向かう。上賀茂神社への行列は優雅に加茂街道を行く。新緑に彩られる加茂街道を行く様はなかなか風情がある。もっとも加茂街道は旧御土居の跡、御所の広場のように行列がバラけるようなスペースはない。

加茂街道は行列をまじかで見る事のできる絶好の場所でもあり、道の両サイドには人垣ができるほどである。このあたりまで進んでくると、さすがに牛、馬そして人にも疲れが出てくるようである。祭りが好天に恵まれると、人はともかく牛、馬の足元が気にかかる。動物には履物がないため、舗装の熱がそのまま彼らの足元に打撃をあたえているようである。かなりの疲れを見せる牛馬もいたが、もうひと頑張りと上賀茂神社を目指す。

 

上賀茂神社の境内は、祭りの前儀である競馬が行われるだけあり、ちょいとした馬場のようである。下鴨神社では社頭の儀を見る事ができなかったが、上賀茂神社では境内から儀式の片鱗を垣間見ることができるようである。

 

祭の雰囲気に包まれた境内で、集った人たちは気ままに祭とほどよい陽射しを楽しんでいるようである。

 

平安以前から今日まで引き継がれてきた祭りであるが、当時に思いを馳せ想像する時、いかに壮大な祭りであったのかがよくわかる。

 

今週の土曜日は2010年の祭日である。好天に恵まれるとよいのだが、それにしても牛馬の足元が気にかかる
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