祇園祭のハイライト 山鉾巡行

2010年06月27日 | 日記

来週には吉符入りで、2010年の祇園祭りが始まる。祇園祭のハイライトというとやはり山鉾巡行であろうか。

現在32基といわれる山鉾が京の街を巡行していく。来年の2011年には大船鉾が加わり33基になるようであもある。

巡行当日、鉾の出発時刻ともなると、四条烏丸にはどこから集まってきたかと思うほどの観客で溢れる。

辻回しが行われる四条河原町の交差点には、これまた大勢の観客で埋まる。この時期の京都は梅雨が明けてはいなといえども、猛暑になる事が多い。その上集まった人たちの熱気が加わり、見物にもかなり体力が必要である。

四条河原町の交差点では、あまり近くから見物するのではなく、四条木屋町のかかる橋の上で見るのが一番よい。ここは少し高くなっており、巡行の様子がよく見え、見物の人は交差点近くに寄っているため、比較的空いており楽である。




巡行を近くで見ようとするなら、やはりこのポイント、新町御池と新町通りにはかなわない。東山を背景にろうろうと巡行する山鉾の姿を満喫できる。



新町御池の交差点では、注連縄切りこそないが四条烏丸で行われる行事のすべてを見る事ができる。さらに新町通りに入るための辻回しが行われる。



ここから、細い新町通へ大きな鉾が入って行く。



すぐ目の前を大きな鉾が通る様は圧巻である。





鉾町の人たちは町屋の二階から巡行を楽しむ。これは、うらやましいかぎりですが役得ですな。



そっと町屋を見ると、その佇まいに祇園祭の伝統を今に継承する姿を垣間見る事ができる。



使用している写真は2008年の巡行の様子である。

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近づく祇園祭 宵山

2010年06月20日 | 日記

日増しに濃くなる緑に気をとられ、ふと気づくと祇園祭がすぐそこに迫っているではないか。お宿の手配を試みたが、やはりこの時期の京都の宿を確保するのはかなり難しい。

 

祇園祭は日本三大祭に数えられるほどの大きな祭りであるが、マスメディアの広告もあり717日の山鉾巡行がまずイメージされる。

 

祇園祭は八坂神社の例祭である。貞観11年(869)当時流行した疫病を鎮めるため、卜部日良麿が66本の鉾をたて、牛頭天王を祀り御霊会を行ったのがはじまりとされている。

 

室町時代になり、町衆達により山鉾が作られ巡行がはじまったようである。この祭りは717日のみでなく、71日から7月末日までの一カ月の期間をとおす長い祭りである。

 

初めての見物には、やはりこの山鉾巡行をみようと意気込むのだが、幾度か行くうちに実は宵山の魅力的な雰囲気にハマッテしまう。

 

しかし、あの四条通りを埋め尽くすような人の波に揉まれるのは、御免こうむりたいものである。さりとて、あの人出がないと宵山の雰囲気が盛り上がらないため、なんとも矛盾した思いである。

 

四条通を埋め尽くすような人の数が、それぞれやや細めの室町通、新町通などへ分散していくのだから、これらの通りはたまったものではない。

 

8時ころには、通行のトラブルを避けるため、これらの通りは北行きの一方通行となる。このあたりは気をつけているのだが、夕方はついつい新町御池から入ってしまう。

 

夕方のこのあたりはまだ人波が少なく、山鉾を見るにはなにかと都合がよいためであるが、屏風祭などを見ているうちに時間が瞬く間に過ぎてしまう。

 

いつも六角通りあたりで、例の北向き一方通行の規制にぶつかり、やむなく南下をあきらめ東西方向に逃げるパターンとなってしまう。

 

京都の梅雨は祇園祭が終わると明けるようで、宵山にはいつも雨が落ちるようである。いつもこの雨が降り始めると退散をきめこむ。


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緑がとてもきれい 青蓮院

2010年06月17日 | 日記

クスノキを見ようと青蓮院へ足を運ぶ事となった。いつもは車越しに眺めてはいるのだが、じっくりと見るのは初めてである。

 

知恩院のお隣となる青蓮院であるので、感覚的に宿から近いと思っていた距離は、車を使うと意外に時間がかかる。

 

青蓮院は三千院、妙法院と並び天台三門跡のひとつである。開基は最澄というから相当古い寺院である。また、門跡であるから天皇つながりとなる。一般的に門跡といえば、ほぼ法親王が門主として入寺するが、青蓮院で有名なのは愚管抄を残した慈円、そして御家流の元とされる書の書き手であった尊円法親王であろう。

 

目標とする寺院を拝観する時は、ほぼ早朝に訪れる事にしている。こうすると、まず拝観者がすくなくゆっくりと見てまわる事ができる。

 

拝観時間前に大きなクスノキを眺めてみたが、一か所にまとまっているかと思ったのだが並木に近い状態であったのは意外な事であった。

 

拝観時間をまち華頂殿に向うが、狙いどおり誰もいない。華頂殿の開かれた広縁から心地よく庭を眺める事ができる。室町期の作庭とされる新緑に彩られた庭は、想像以上に魅力的な雰囲気を漂わせていた。




 

庭へと降り、小堀遠州作といわれる霧島の庭へ向かったのだが、時期的に霧島ツツジはまだのようで、緑のままで燃えるような朱色に変わったツツジを見る事はできなかった。


 

龍心池を中心とした小高く盛られた庭は、途中石段で上へと登るのだが丁度石段を上った所に好文亭がある。茶室の中は解放されていないようである。


 

庭で一番の高台であろうところに日吉社なる神社が祀られている。このような場所に神社があるのには驚いたが、おそらく何らかの曰くがあるのであろう。江戸時代に仮御所であったがため粟田御所の別名をもつ青蓮院に、よく日吉社と名のつく社が残ったものである。そのあたりは歴女、歴士の方のブログにまかせよう。

 

庭を一周していくと本堂にでてくる。拝観順路になっている道から、本堂の中を見る事ができる。薄暗い本堂には青不動がかけられている。もちろんレプリカであろうが、遠目にも青不動の威圧を感じ取る事ができる。

 

本堂をぬけると宸殿前にでるが、御所と名がつくだけあり、庭の形状はまさに御所で左近の桜、右近の橘が植えられていたようである。

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今週はお休み

2010年06月11日 | 日記
今週は地元で、YOSAKOIソーラン祭りが始まりましたので、京都みてあるきはお休みで~~す。
来週から、青蓮院、真如堂をアップしてまいります。

YOSAKOIソーラン祭りの模様はこちらのブログです。
http://ameblo.jp/itrip/

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ついつい寄ってしまう 天龍寺

2010年06月03日 | 日記

天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇とその皇子である亀山天皇は離宮を営み、「亀山殿」と称した。

 

「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。

 

足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。尊氏は暦応元年/延元3年(1338年)、征夷大将軍となった。

 

後醍醐天皇が吉野で死去したのは、その翌年の暦応2年/延元4年(1339年)である。足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。

 

いわば「かたき」である後醍醐天皇の死去に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。

 

寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船(寺社造営料唐船)が仕立てられたことは著名である。(Wikipediaより引用)

 

 

水無月となり、緑がどんどん濃くなってくる。この時期になると嵐山にある緑に彩られた天龍寺を思い出す。

 

天龍寺は、まず大きな白壁の庫裏に入ると、禅宗の寺院らしく達磨が迎え入れてくれる。



 

京都五山の第一にある天龍寺だが、大方丈からみる庭がとても印象的である。

 


秋の紅葉もみごとであるが、新緑からこの時期にかけて緑に彩られる曹源池の風情もまたいいものである。



 


天龍寺は嵯峨嵐山と、観光地としても絶好のポイントにあるため、いつも多くの観光客が足を運ぶようである。

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