雪の境内 銀閣寺

2010年01月30日 | 日記

銀閣寺は、室町時代後期に栄えた東山文化を代表する臨済宗相国寺派の寺院。開基は、室町幕府8代将軍の足利義政、開山は夢窓疎石とされている。

室町幕府8代将軍足利義政は、足利義尚に将軍職を譲り、東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺のあったところであり、近代以降も浄土寺の地名が残っている。

東山殿には会所、常御所などの大規模な建物が建ち、ある程度政治的機能ももっていた。ただし、現存する当時の建物は銀閣と東求堂のみである。

義政の菩提を弔うため東山殿を寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。1994年12月17日には「古都京都の文化財」として 世界文化遺産に登録されている。

銀閣は、足利義政の山荘東山殿に造営された観音殿のことで、重層、宝形造、柿葺で、初層の「心空殿」は住宅風、上層の「潮音閣」は禅宗様(唐様)の仏堂である。書院造につながる和風の住宅風意匠が取り込まれており、東山文化の代表的建築物である。

銀閣と通称される慈照寺観音殿には銀箔は使用されていない。2007年1月5日に行われた科学的調査によって創建当時から銀箔が貼られていなかったことが明らかになっている。

東求堂は義政の持仏堂である。池に面して建てられ、大きさは3間半四方。正面左は方2間の仏間、右奥は義政の書斎(同仁斎とよばれる)である。書斎の北側に設けられた付書院と違棚は現存最古の座敷飾りの遺構であり、書院造や草庵茶室の源流として、日本建築史上貴重な遺構である。

庭園は錦鏡池を中心とする池泉回遊式庭園。苔寺の通称で知られる西芳寺庭園を模して造られたとされる。銀沙灘、向月台と称される2つの砂盛りがある。(Wikipediaより引用)

銀閣寺は、金閣寺、西本願寺の飛雲閣、芳春院の呑湖閣と並び京の四閣と称され、京都に興味を持つ人ならば誰でも知っている有名な観光寺院である。哲学の道と重なる銀閣寺道は、いつも多くの人で溢れている。

最近、銀閣を訪れた人の中には、覆いがされた銀閣を見て驚いた方も少なくなかろう。2008年2月から2年をかけ行われた観音殿の修復も、そろそろ完成を迎える頃であろう。

今回使用する写真は、2009年2月の雪景色である。観音殿はこの後まもなく覆いがかかったが、いま思うと実にタイミングのよい時に訪れたものである。

山門をくぐり観音殿と新書院の間を進むと、円錐を中間から切り落とした形の砂盛である向月台と波模様の銀沙灘が目に入る。その独特の形と見事な砂盛りに、誰もが「何をするものであろう」との好奇心を呼び起こされるであろう。

 

向月台はこの上に座して月の出を待つためのもの、銀沙灘を海と見立て小島を表現する。また、銀沙灘を湖と見立て向月台の真上を満月と見立てる。あるいは座禅石の意味合いをもつ。もう一つの砂盛である銀沙灘があるが、これは月の光等の自然光を反射させ室内の採光に使うためとの説もあるようである。いずれにしても諸説があり、結果的に今となっては誰にもその意図はわからないという事なのであろう。

幾つかの俗説を巡らしながら、雪に覆われた銀沙灘を花頭窓からそっと楽しむのも一興である。

 

昭和に入ってから発掘された枯山水庭園がある山麓へ上ると、銀閣寺境内を見渡す事ができる。春、夏、秋の彩りと異なり、モノトーンに佇む銀閣もまた風情がある。

 

現在、ホームページ上でその日の銀閣寺の風景を見る事ができるが、おそらくこの位置近くにライブカメラが設置されているのだろう。

金閣のような華やかさを持たないが、長年の歳月に漆も色あせ、傷みも年々重なってきた銀閣寺の観音殿であるが、このたびの修復にあたり完全修復は断ったようである。

 

現在の佇まいに必要最小限の修復とした事で、これまでのイメージを損なわない観音殿を、ここ数十年は楽しめそうである。

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観光スポットのNo.1 清水寺

2010年01月30日 | 日記

清水寺は、山号を音羽山と称する。本尊は千手観音、開基は延鎮である。もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。西国三十三箇所観音霊場の第16番札所である。

清水寺は法相宗(南都六宗の一)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。また、古都京都の文化財の一部としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。

清水寺の創建については、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、『清水寺縁起絵巻』、『今昔物語集』、『扶桑略記』などに清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば、草創縁起は大略次の通りである。

大和国興福寺の僧賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、千手観音を念じ続けている行叡居士という白衣の修行者と出会う。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。

その後、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂は、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。

後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。田村麻呂は延鎮と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。(Wikipediaより引用)

清水寺は、ここ十数年来京都の観光スポットとしては一番人気のところらしい。松原通、産寧坂、五条坂と各道筋から観光客が集い、参道は四季を問わず人で溢れている。五条坂ができるまで清水寺への参拝は、法観寺から産寧坂を通るルートであったようである。二年坂、産寧坂の通りがいまだ賑やかなのは、その名残なのであろう。

参道に立ち並ぶ土産物店の多さも、他の寺院のそれと比べると群を抜いて多い。気まぐれに、ところどころの店に立ち寄っては見るのだが、客扱いは商い最優先のようである。京都では現在、「おもてなしの心」を、一つのキャンペーンとして観光事業の促進を図っているが、とても「おもてなしの心」が浸透している対応とは思えない。悲しいかな、この印象は清水だけに限らず随所々々で感じる事である。

辛口はさておき、昨年の年末に訪れた時期は、丁度今年の漢字「新」が発表された日であった。夜間ではあるが本堂に置かれた「新」の文字は、多くの人の携帯写真に納められたようである。

 

舞台からは京都市内が一望できるが、夜間に眺める京都タワーは清水寺からは遠くに見え、それ程はなれているとは思えない高台寺のお霊屋からは、手に取るような近くに見えるのでその違いにいつも頭をひねる。

 

さて、清水寺本堂が最も美しく眺められるのはどのロケーションからなのだろうか。子安の塔(泰産寺)から眺めると、清水寺全体を真正面から捉える事ができる。NHKがライブカメラとして中継するアングルもこの位置からのようである。

だが私の場合、奥の院から子安の塔に向う道筋の途中から眺める清水が一番好きである。少々斜め方向から眺める事で、本堂に立体感が出、建物のきれいな稜線を堪能できる。春夏秋冬、清水を訪れる時は、まずこのロケーションに足を向ける。

 

子安の塔から本堂正面を見られる事は、とりもなおさず舞台からも子安の塔を正面に見る事ができるという事である。舞台から眺める子安の塔は、実際に歩いて行く感覚とは違い意外と距離感を感じる。

 

子安の塔は桓武天皇の宮人である坂上春子(坂上田村麻呂の女)が皇子葛井親王誕生のお礼として建てられたとされ、女人の安産祈願の崇敬があり、洛陽観音第十四番の札所である。

本来の清水寺参道にあたる産寧坂の名は、安産祈願のため子安の塔に参拝する坂道なので、産寧(うみやすい)坂となったともいわれ、もともとは現在の仁王門近くにあったものを現在地に移転したもののようである。

また、牛若の母である常盤が、今若・乙若・牛若の3人の子どもを連れて吹雪の中、京を逃れる際、千手子安観音に子ども達の無事を祈願したとも伝わる。

舞台左には奥の院がある。奥の院には小振りであるが本堂同様に舞台がある。この舞台からは正面に京都市内を、そして本堂の全貌を見る事ができるため、いつも記念撮影の人が絶えないようである。

 

舞台から眺める風景の中に子安の塔がある事で、清水寺は京都らしい風情を際立たせている。正面には子安の塔、横に目を向けると奥の院、京都タワーと、清水の舞台はいにしえの光と、現代の光を同時に感じ取る事ができる魅力的なところではある。

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入船の蓮華寺

2010年01月29日 | 日記

蓮華寺は高野川のほとり上高野の地にある。もとは七条塩小路にあった西来院という時宗寺院であったが、応仁の乱に際して焼失した。江戸時代初期に、加賀前田藩の家臣今枝民部近義が、かつて近義の祖父、重直の庵があった現在地に再建したものである。

重直は晩年に至って得度し、詩書や絵画、茶道に通じた文人として草庵を結んだ。近義が蓮華寺を造営したのは、祖父の菩提を弔うためと考えられている。現在は比叡山延暦寺を本山とし、延暦寺実蔵坊の末寺のひとつとして天台宗に属する寺院である。

蓮華寺の造営にあたっては、詩仙堂を造営した石川丈山、朱子学者の木下順庵、狩野探幽、黄檗宗の隠元禅師や第二世の木庵禅師らが協力したことが、黒川道祐の「東北歴覧之記」に記されている。上述のような文人たちの協力を得て造営されたことにより、蓮華寺は黄檗宗の様式の建築と江戸初期の池泉鑑賞式の典型ともいえる庭園をもつ寺院となった。(Wikipediaより引用)

白川通りの宝ヶ池から八瀬、大原方面に向うと程なく蓮華寺がある。蓮華寺は通りから少し奥まったところにあり、伽藍が見えないため注意をしていないと見過ごしてしまう。

京都市内でも最も遅くまで紅葉が見られる寺院のひとつであり、その紅葉の様は見事である。

書院から鑑賞する庭は、宝泉院同様に額縁となる。

書院は東向きに開放されているため、晴れた日の夕刻には西陽の微妙な変化が庭に映え、光による庭の七変化が楽しめる庭園でもある。

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しかし、ロケーションが市内中心部より少し離れているためか、訪れる観光客は多くない。逆にこれが奏して、静かにゆっくりと庭の鑑賞ができるいわば穴場的寺院である。

 山門は江戸時代の再建当時のものとされるが、いつ訪れても片開きであり周囲の影響もあり、山門である事の印象が浅く感じるのは私だけであろうか。

降りしきる雪の中、それほどの期待もせずにくぐった山門の雪の参道から、思いもかけないご褒美をいただいた。石畳の参道に、楓の枝が枝垂れる見事な雪景色である。

期待が小さかっただけに、この雪景色から受けたインパクトは、期待に反して大きなものであった。これほどの雪景色に出会う事は、地元の人でも滅多にないのではないだろうか。

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庭園を鑑賞できる書院には人影もなく、庭の池に深々と雪が降り続けるだけの風景である。しかし、ここも見事な雪景色を呈していた。

池の形は「水」の字のように作られているというが、私のような凡人にはその形がよく見えてこない

 池には庭園でも稀少といわれる舟石が配置されている。しかも配置される舟石は殆ど出舟の形(彼岸に浄土を見る)をとるが、蓮華寺では入船(現世に浄土を見る)の形といわれる。雪に覆われた庭園は、まさに入舟ごとく、現世における浄土のひとコマを演出して見せたのであろうか。

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また、池の後方には石組みで蓬菜山を表し、重直の一代記が刻まれた石碑が建てられている。石碑の土台には、亀と麒麟の合体した姿をかたどる石組みといわれている。これらの石碑、石組みは庭の木立にさえぎられているため、よほど注意深く見なければわからない。

蓮華寺には他に寺院の名前がついた蓮華寺型燈籠、宇治万福寺と同じ形式の梵鐘などがあるが、これらは別の機会に紹介する事とする。
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額縁の庭 宝泉院

2010年01月23日 | 日記

平安初期、比叡山に天台仏教を開いた最澄の高弟・円仁が唐に渡り、十余年の仏教修学を終え帰国し、叡山に密教、五会念仏等その法要儀式に用いる仏教音楽「声明」を伝えた。後、寂源が大原寺(勝林院)を創建し、法儀声明を盛んにした。平安末期、良忍が出るに及んで大原は、法儀声明の修学地(声明の里)として有名になる。当院は、大原寺(勝林院)住職の坊として平安末期頃よりの歴史を持ち、現在に至っている。

建物は室町時代文亀二年の再建といわれるが、建物等の形式からみて江戸初期頃の再建だと思われる。

額縁庭園は客殿の西方、柱と柱の空間を額に見立てて鑑賞する。竹林の間より大原の里の風情を満喫できる。庭の名は盤桓園(立ち去りがたい意)と称する。

宝泉院のパンフには上記のように記されている。

宝泉院は勝林院の坊であった事から三千院参道の奥、勝林院の横に位置しているため、参道からその建物を見る事ができない。そのためか至極残念な事ではあるが、数年前までは宝泉院の存在を知らない観光客などは、勝林院から先に足を運ばずに戻る事が多かったようである。

しかし、ここ二、三年、宝泉院を訪れる拝観客が随分と多くなった事に驚いている。

勝林院の前から横手に入ると、いかにも坊のために作られたかのような細い道がある。

声明が盛んであった当時には、多くの僧侶達がこの細い道を行き来したのであろうと思うと感慨深いものがある。

坊としての建物ゆえか山門はいかにも小さいが、反して山門の正面には近江富士を模ったといわれる大きな五葉松が構えている。この五葉松、一説には樹齢700年と伝えるが、その幹の見事さを客殿から見る事ができる。

 

 ・・・・山門・・・・

 ・・・五葉松・・・

・・・五葉松 幹・・・

客殿に足を進めると、額縁庭園で知られる盤桓園(ばんかえん)の光景が目に飛び込んでくる。盤桓園を初めて目にした時の衝撃は今でも忘れる事がない。京都には額縁庭園をもつ寺院が幾つかあるが、私の感性には宝泉院の庭園がよく合っているようである。以来、雪の盤桓園を鑑賞したく、幾度か冬に訪れたが昨年ようやく見ることができた。

  

・・・竹林・・・

盤桓園は松竹梅の構図をとっているが、初代の梅木は枯れたようで現在は二代目になるのだろうか小振りな木となっている。初代の梅木が現存しておれば、なお一層素晴らしい光景が見られたろうに惜しいことである。

大原は声明の里とされるが、拝観時に一度もその声明を聞いた記憶がない。だが、囲炉裏の部屋に録音テープがあり聞くことができた。声明独特の旋律は実に心地よいものである。声明が流れるなか、静かに盤桓園を鑑賞できるならばどれほど素晴らしい事であろうか。

さて、宝泉院からいただいたパンフに「竹林の間より大原の里の風情を満喫できる」とあるが、惜しいかな現在は竹林の間に杉の幹が混ざり、その風情を阻害している。さりとて、いまでも山並みを流れる霧を竹林越しに垣間見る事はでき、その風情をもってよしとしている。

また、少しでも手前から庭を鑑賞しようとするのが人情、赤い毛氈の上に座して動かずの状況はどの額縁庭園でも経験する事である。しかし、寺院の庭園は、基本的に床の間、本尊様の前など客人をもてなす位置から眺めるように設計、作庭されていると聞き及んだ事がある。さすれば、庭園の手前から少し離れた位置での鑑賞が庭を一番美しく鑑賞できるビューポイントとなるのだが・・・

しかしながら、拝観時間内で誰もいない額縁庭園を撮るのはなかなか難しいものである。

ところで昨年、ある方のブログを拝読して驚いたのだが、宝泉院も撮影禁止になったとの記事がアップされていた。真偽は定かでないが事実なら残念な事である。

この美しい庭園を鑑賞できる客殿の天井に、慶長5年、伏見城落城のおり鳥居元忠が自刃して果てた床板を血天井にして供養している。京都市内には源光庵、養源院、正伝寺の各寺院でも同様に供養されているが、興味本位で見るものではないと考えているためブログでは深く触れない事にしている。

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淨域への窓 法然院

2010年01月21日 | 日記
鎌倉時代の初め、専修念仏の元祖法然房源空上人が、鹿ヶ谷の草庵で弟子の安楽・住蓮とともに、六時礼讃を唱えられたのに由来する。建永元年、後鳥羽上皇の熊野臨幸の際、女房松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家し、上皇の逆鱗に触れるという事件が生じる。この事件により法然上人は讃岐国へ流罪、安楽・住蓮は死罪(建永の法難)となり、その後草庵は久しく荒廃することとなるが、江戸時代初期に知恩院の萬無と弟子の忍澂によって再興される。 浄土宗内の独立した一本山であったが、昭和28年に浄土宗より独立し、単立宗教法人となる(法然院HPより引用)。山号は善気山、寺号は萬無教寺、本尊は阿弥陀如来で、境内には谷崎潤一郎、九鬼周造、河上肇らの文人の墓がある。方丈庭園内の善気水は、洛中名泉の一つとして知られている。

京都における浄土宗の寺院といえば知恩院の大きな伽藍を思い浮かべてしまうが、法然院は草庵というイメージが強い。これは法然院参道から見る山門が大変印象深いためであろう。

法然院は京都の街中と言ってもよいロケーションにありながら、多くの人が訪れている事を目にした事があまりない。静寂に包まれた境内はゆっくりと時が流れているかのようである。

早春、参道の石段に椿の花が散っている様も実に趣があるが、今の季節にはやはり雪の山門がふさわしい。



大上段に構えた山門とは違い、藁葺の屋根から四角に開け放たれた空間は、現世と淨域をつなぐ窓のようにさえ思える。

参道から眺める山門の光景は、四季を問わず心を癒してくれる空気を持ち合わせ、時間を忘れてその風情を楽しみたい衝動にかられる。



山門をくぐると参道の両側に白砂壇と呼ばれる盛砂がある。この白砂壇は水を表すとされ、参拝者は砂壇の間を通る事で心身を清め浄域へ入る事となり、視点を変えると実に合理的な造りともいえる。



白砂壇に描かれる文様は雲水さんの修行のひとつであり、日々変わっていると聞き及んだ事がある。



方丈や本堂も大きな建物ではなく、方丈はもと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿を移建したものといわれている。方丈の襖絵には、重要文化財指定の狩野光信筆と堂本印象筆のものが納められているとされるが実見した事はない。

法然院は境内の拝観は自由であるが、残念ながら方丈や本堂は通常非公開で、春・秋の特別公開時以外は拝観する事ができない。府外、それも遠方に住む私にとって、特別公開の日程に合わせて訪れるのは容易な事ではない。

いまいち、このサイトのエディターの要領を得ないためか記事作成が大変です。

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