銀閣寺は、室町時代後期に栄えた東山文化を代表する臨済宗相国寺派の寺院。開基は、室町幕府8代将軍の足利義政、開山は夢窓疎石とされている。
室町幕府8代将軍足利義政は、足利義尚に将軍職を譲り、東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺のあったところであり、近代以降も浄土寺の地名が残っている。
東山殿には会所、常御所などの大規模な建物が建ち、ある程度政治的機能ももっていた。ただし、現存する当時の建物は銀閣と東求堂のみである。
義政の菩提を弔うため東山殿を寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。1994年12月17日には「古都京都の文化財」として 世界文化遺産に登録されている。
銀閣は、足利義政の山荘東山殿に造営された観音殿のことで、重層、宝形造、柿葺で、初層の「心空殿」は住宅風、上層の「潮音閣」は禅宗様(唐様)の仏堂である。書院造につながる和風の住宅風意匠が取り込まれており、東山文化の代表的建築物である。
銀閣と通称される慈照寺観音殿には銀箔は使用されていない。2007年1月5日に行われた科学的調査によって創建当時から銀箔が貼られていなかったことが明らかになっている。
東求堂は義政の持仏堂である。池に面して建てられ、大きさは3間半四方。正面左は方2間の仏間、右奥は義政の書斎(同仁斎とよばれる)である。書斎の北側に設けられた付書院と違棚は現存最古の座敷飾りの遺構であり、書院造や草庵茶室の源流として、日本建築史上貴重な遺構である。
庭園は錦鏡池を中心とする池泉回遊式庭園。苔寺の通称で知られる西芳寺庭園を模して造られたとされる。銀沙灘、向月台と称される2つの砂盛りがある。(Wikipediaより引用)
銀閣寺は、金閣寺、西本願寺の飛雲閣、芳春院の呑湖閣と並び京の四閣と称され、京都に興味を持つ人ならば誰でも知っている有名な観光寺院である。哲学の道と重なる銀閣寺道は、いつも多くの人で溢れている。
最近、銀閣を訪れた人の中には、覆いがされた銀閣を見て驚いた方も少なくなかろう。2008年2月から2年をかけ行われた観音殿の修復も、そろそろ完成を迎える頃であろう。
今回使用する写真は、2009年2月の雪景色である。観音殿はこの後まもなく覆いがかかったが、いま思うと実にタイミングのよい時に訪れたものである。
山門をくぐり観音殿と新書院の間を進むと、円錐を中間から切り落とした形の砂盛である向月台と波模様の銀沙灘が目に入る。その独特の形と見事な砂盛りに、誰もが「何をするものであろう」との好奇心を呼び起こされるであろう。
向月台はこの上に座して月の出を待つためのもの、銀沙灘を海と見立て小島を表現する。また、銀沙灘を湖と見立て向月台の真上を満月と見立てる。あるいは座禅石の意味合いをもつ。もう一つの砂盛である銀沙灘があるが、これは月の光等の自然光を反射させ室内の採光に使うためとの説もあるようである。いずれにしても諸説があり、結果的に今となっては誰にもその意図はわからないという事なのであろう。
幾つかの俗説を巡らしながら、雪に覆われた銀沙灘を花頭窓からそっと楽しむのも一興である。
昭和に入ってから発掘された枯山水庭園がある山麓へ上ると、銀閣寺境内を見渡す事ができる。春、夏、秋の彩りと異なり、モノトーンに佇む銀閣もまた風情がある。
現在、ホームページ上でその日の銀閣寺の風景を見る事ができるが、おそらくこの位置近くにライブカメラが設置されているのだろう。
金閣のような華やかさを持たないが、長年の歳月に漆も色あせ、傷みも年々重なってきた銀閣寺の観音殿であるが、このたびの修復にあたり完全修復は断ったようである。
現在の佇まいに必要最小限の修復とした事で、これまでのイメージを損なわない観音殿を、ここ数十年は楽しめそうである。