普段着 哲学の道

2010年04月29日 | 日記

桜がおわり、時期はずれと思われるこの時節に、ここ哲学の道を散策してみようと思う観光客はそう多くはあるまい。

桜、紅葉ともなれば多くの人で賑わう哲学の道ではあるが、さすがにこの頃になると閑散としている。

それも早朝ともなるとなおさらである。朝の陽ざしに包まれる道では、ウオーキングをする人と行き交うだけである。

シーズンの谷間ともいえる時期ではあるが、哲学の道が落ち着きを取り戻し、とても素敵な表情を見せるのがこの新緑の季節である。

堤を覆うように茂る新緑が疏水に映える様はまことに美しく、歩むに従い青紅葉が堤を深く深く飾って行く。

桜、紅葉も捨てがたいが、この時期に哲学の道が漂わす風情が一番好きである。

東山の麓にあり、閑静な道を鳥のさえずりを聞きながらのんびりと散策をすると実に心が癒される。近代において、京大生や文人達に愛され、文人の道と呼ばれた所以がよく分かる。

いつしか哲学者が好んで歩いた事より哲学の道と名が変るが、おそらくその歩みとしては雑踏に紛れる時節より、この時期が一番よいのではなかろうか。

春の桜、夏のゲンジボタル、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々の風情が楽しめる道ではあるが、惜しいかな夏景色はいまだ見ることかなわずにいる。
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十石船 伏見界隈

2010年04月22日 | 日記

京阪の中書島駅から京橋方面へまっすぐに進むと龍馬で知られる寺田屋がある。寺田屋を訪れたのはもう随分以前の事である。寺田屋こそ以前の面影を残していたが、周辺道路は拡張整備されており、その変りようには驚いた。

だが今回のみてあるきは、その寺田屋ではなく江戸時代の風情を彷彿とさせる伏見の宇治川派流界隈である。伏見は秀吉が伏見城を築城したことにより城下町として発展するが、本格的な賑わいを見せたのは江戸時代に入ってからのようである。

当時、角倉了以により高瀬川が開削された事により、宇治川、淀川を結ぶ運河が構成される。伏見は伏見城の外堀を利用した現在の豪川を、京都と大阪を結ぶ物流の拠点として発展をとげ、なかでも賑わいをみせたのは現在の京橋、南浜界隈のようである。

その南浜界隈には今でも酒蔵が立並び、その端正な風景は現在京都市界わい景観整備地区ともなっている。酒蔵の裏には酒樽運搬のためなのか、宇治川の派流が流れる。現在、この派流には当時旅人の足となった三十石舟を模した十石舟が観光用として往来している。

ところで三十石舟にはどのくらいの人が乗れたのであろう。一石は100升な
ので現在の重量に換算すると150Kgとなる。さすれば三十石は4500Kgとなる。乗船する人の重さが平均で60Kgとすると単純計算で75人となる。このように考えると、三十石舟はかなり大きな船であったようであるが、これは単純計算上の話であるので実際はこの半分程度の40人前後であろうと推測できる。

それでは現在観光用に使われている十石舟はといえば、同じように単純計算で25人が乗れる計算となるが、三十石舟と同様に考えれば12,3人程度であろうか。

伏見の酒蔵までは幾度か来たことがあったが、派流沿いを歩くのは初めてである。残念ながら私が訪れた時には、この十石舟が往来する風景こそ見る事はできなかったが、周りに漂う風情は誠によいものであった。

十石舟に乗船し派流から川岸の柳を眺めると、また別の世界が見えてきそうである。

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夜桜 祇園白川

2010年04月16日 | 日記

江戸初期に八坂神社の門前で営業された水茶屋がこの花街の始まりである。江戸末期にはお茶屋が500軒、芸妓、舞妓、娼妓合わせて1000人以上いたという。しかし、東京奠都によって陰りが差した祇園を立て直すために明治5年に「一力亭」茶屋の九代目当主で杉浦治郎右衛門は槇村正直の協力を得ながら京都博覧会の余興として都をどりを創設した。

第一回の都をどりの振り付けを担当したのが三世井上八千代であり、これ以降の祇園甲部の舞いは井上流に限るとする取り決めが為され、現在まで祇園の舞は井上流一筋となっている。(それ以前は篠塚流の存在も大きかった)。この時期、祇園は文人や政治家等に愛され大いに繁栄した。当時、「膳所裏」と呼ばれていた一部の地域は祇園乙部、後の祇園東として分離し、現代に至る。

昭和30年代から40年代にかけてお茶屋150軒、芸妓、舞妓合わせて600人を数えたが、時代の流れと共に花街の規模は縮小していった。古い街並みはビルに変わり、加えてバーやスナック、性風俗店の進出により環境が悪化する。新橋地区(元吉町)の住民はこの乱開発に危惧を抱き、この地域の町並み保存を行政に働きかけた。この結果、新橋地区は修景地区に指定され、後に重要伝統的建造物群保存地区に選定される。一方、祇園町南側(とくに花見小路周辺)は女紅場学園所有であるために乱開発は逃れ、歴史的風景特別修景地区に指定された。

祇園は数多くの人物で彩られ、また名妓を輩出してきた。江戸末期には大和大路通に営業していた「魚品」の芸妓、君尾は志士らを新選組の目から逃れさせたことで有名。明治期に「加藤楼」のお雪(雪香)はアメリカの財閥であるモルガンと結婚して、後に「モルガンお雪」と呼ばれた。吉井勇の「かにかくに」の歌で有名なお茶屋「大友」の女将で芸妓である磯田多佳女や、井上流の名手として、また後輩の育成に努めた松本佐多女、ほかに早崎春勇、三宅小まめ、玉木里春、藤本竹葉、安藤孝子(現役当時の芸名は孝千代、後に11PMに出演)、岩崎峰子、高田真知子、佳つ乃など京都のみならず、世間に花を添えてきた芸妓が数多くいる。(Wikipediaより引用)

 

京都には街中でも、その風情をかもしだすところが数多くある。祇園にある白川畔もそのひとつであろう。お茶屋の家並み、石畳と京情緒を楽しむことができる。そのためか、祇園の白川沿いはいつも人影が絶えないようである。

春夏秋冬と季節を選ばずに楽しめるところではあるが、白川の夜桜を眺めてみた。昼間とは一味違う風情を楽しむ事ができる。お店の灯が白川に映える様は、なんともいえぬ風情を浮き立たせる。


白川沿いに並ぶお店へはどのように入るのかが今もわからない。なかには通りから川越しに橋が架かっているお店もあるが、全部が全部でない。一度、川の裏側へ回り確かめてみたのだが、やはりわからずじまいであった。

桜の時期は白川のみならず、通りを歩く人たちは一様に空を仰ぐ。

ところで、祇園新橋地区の様は、明治にはいり整備された地区のようである。近くにある石塀小路も大正(訂正:明治だそうです)に造られた道であり、一般に京情緒といわれるものは意外にもそう遠くない過去のもののようである。

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何をみつめているのか 円山公園

2010年04月09日 | 日記

円山公園は、京都府京都市東山区にある公園。国指定名勝。園域は八坂神社、知恩院に隣接する。圓山公園とも表記される。「祇園枝垂桜」に代表される桜の名所である。

もとは八坂神社の境内の一部。現在の園地計画は武田五一がまとめ、園内にある回遊式の日本庭園は小川治兵衛が作庭、野外音楽堂や坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像などもある。

円山公園の枝垂桜は「一重白彼岸枝垂桜」という品種で、初代の枝垂桜は1947年(昭和22年)に枯死したため、現在は2代目が植えられている。花見のシーズンにはライトアップが行われ、深夜でも花見客の姿が見られる。

なお、二条駅前(千本通側)に植えられている枝垂桜は円山公園の枝垂桜3代目である。敷地内には円山公園音楽堂があり、約3,000人を収容可能な屋外ホールとして利用されている。(Wikipediaより引用)

 

円山公園の周囲は、知恩院、高台寺、八坂の塔等の多くが点在し、観光文化巡りには事欠かない。また、円山公園は街中にあり、誰もが容易に足を運べる地理にある。

私もよく足を運ぶが、意外と地元の方が多いような印象も受ける。それだけ府内の人には馴染みが深いのであろう。

園地計画は武田五一、日本庭園は小川治兵衛とは驚きであるが、気候が良くなると園内の広場ではよく若者のパフォーマンスが繰り広げられ、多くの観客で賑わっている。

円山公園の目玉は、何といっても枝垂桜であろう。この枝垂桜、現在は二代目との事だが、60年余りの歳月を経てかなり老木化してきている。

花見の時期は、この枝垂桜を中心に多くの人達がシートを敷き詰め花見に興じるようである。勿論この方々は京都市もしくは近郊に住まいする人達であろう。この花見の様は、まさに「はじける」という言葉がピッタリと合うようである。

公園の南側には、メインの一重白彼岸枝垂桜とは別に数本の桜が枝垂植えられている。これらは若木なのであろうか薄紅というよりは、白に近い彩の花を付けるようである。また、木にかなりの勢いを感じる。これらの木から将来公園の中心木になるものが出てくるのであろうか。

そして、これらの木々に囲まれるように坂本龍馬の銅像がある。この龍馬の銅像、通り一遍に公園を抜けてしまうと見逃してしまうであろう。この銅像は昭和九年に建てられたが、その時の銅像は太平洋戦争での弾丸と化してしまったようである。その後台座だけが残ったが、個人の浄財で再建されたようである。

銅像と化してまでも世界を駆け抜けた龍馬の目は、現在何処をそして何を見つめているのだろうか。

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動く襖絵 毘沙門堂

2010年04月01日 | 日記

毘沙門堂は、京都市山科区にある天台宗の寺院。山号は護法山。護法山安国院出雲寺とも称す。本尊は毘沙門天。天台宗京都五門跡の一であり、「毘沙門堂門跡」とも呼ばれる。

寺伝によれば、毘沙門堂の前身の出雲寺は文武天皇の勅願により、行基が開いたという。その後、荒廃するが、鎌倉時代初期、平親範が平家ゆかりの3つの寺院を合併する形で再興。中世末期には再び荒廃していたが、近世に至り、天海とその弟子の公海によって現在地に移転・復興され、天台宗京都五門跡の一として栄えた。

前身寺院である出雲寺は、相国寺の北、上御霊神社付近にあったと推定される。付近からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が出土しており、この付近に平城京遷都以前にさかのぼる寺院のあったことがわかる。また、一帯には現在も「出雲路」の地名が残されている。

平親範置文、洞院部類記によると、同年、平親範は平等寺、尊重寺、護法寺という平家ゆかりの3つの寺院を併合し、出雲路に五間堂3棟を建てたという。置文によれば、平等寺は桓武天皇の皇子で桓武平氏の祖である葛原親王の創建で、太秦に所在。尊重寺は平親信の創建で、五辻に所在。護法寺は平親範の父・平範家が伏見に創建。こうしてできた寺は出雲寺の寺籍を継いで護法山出雲寺と称し、最澄自作と伝える毘沙門天像を本尊としていた。

中世には出雲寺は桜の名所として知られ、藤原定家の日記『明月記』や、『沙石集』にも言及されている。この鎌倉復興の出雲寺もやがて荒廃したが、天台宗の僧で徳川家康とも関係の深かった天海によって復興が開始され、その弟子の公海が引き継ぎ完成した。江戸幕府は山科の安祥寺の寺領の一部を出雲寺に与え、天海没後は後西天皇皇子の公弁法親王が当寺で受戒し、晩年には当寺に隠棲している。以後、門跡寺院となり、「毘沙門堂門跡」と称されるようになった。(Wikipediaより引用)


現在も京都市内には、秀吉が築いたといわれる御土居の跡が残る。その役割は諸説あるようであるが、この御土居を境とし洛中と洛外に分かれていた事は確かなようである。

全長23Kmにも及ぶといわれる御土居であるが、その範囲を調べてみると現在の市街地がすっぽりと入ってしまう。当時御土居には出入りのための口が設けられており、これが後に京の七口と呼ばれるものにつながっていったようである。

毘沙門堂の記事で、いきなり御土居とくると驚くかも知れないが、この御土居考えてみると実によく出来ている。府外の者が物見草に観光に出かけるとこの御土居の外、いわゆる洛外といわれる地域は意外と遠いと感じるのである。

そのためなかなか足が向かないのだが、洛外山科にある桜と紅葉の名所で高名な毘沙門堂を訪れる機会を得た。現在時節は桜であるが残念ながら訪れた時期は、どちらにも当てはまらない冬である。


本堂は毘沙門天を本尊とし、民衆の祈願提灯が壁一面に掛けられており、名前のとおりお堂そのものである。名前と建物の感じがこれほどピッタリとはまるところも珍しい。


ところで毘沙門堂の前身は出雲寺というお寺であるとされるが、それを証明するかのようにお堂の横には方丈が続く。

各建物はそれほど大きなものではなく、その中で仕切られる各間もこじんまりとした印象を受ける。だが、毘沙門堂は各間の襖に描かれる絵に最大の特徴があるようである。

どの間の襖絵も全て遠近法を使って描かれたものであり、見る位置により絵が動くのである。雲水さんに聞いたところ、動かない絵は一間だけだという。

毘沙門堂も他の寺院同様に撮影禁止なのであるが、注意をしていたつもりなのだが、張り紙がなく撮影OKかと思い撮ってしまったところがある。

もちろんお堂の中も同様であるが、お寺の方がいたのであるがシャッターを切ってもなにも反応がないので、OKかと勘違いをしたのである。考えてみるに、参拝者の良識を信じますという事なのであろう。

 

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