そろそろ満開? 哲学の道

2010年03月26日 | 日記

哲学の道は京都市左京区にある小道である。南禅寺付近から慈照寺(銀閣寺)まで、琵琶湖疏水の両岸に植えられた桜はみごとで、春や紅葉の秋は多くの観光客でにぎわう。

哲学者・西田幾多郎がこの道を散策しながら思索にふけったことからこの名がついたと言われる。「思索の小径」と呼ばれていたものが、いつしか「哲学の道」と呼ばれるようになったとされており、1972年に正式な名称となった。日本の道100選にも選ばれている散歩道である。

道の中ほどの法然院近くには、西田が詠んだ歌「人は人 吾はわれ也 とにかくに吾行く道を 吾は行くなり」の石碑がある。哲学の道の桜は、近くに居を構えた日本画家・橋本関雪の夫人が大正年間、京都市に苗木を寄贈したのに始まる。当初の木はほぼ樹齢が尽きたと思われるが、植え替えられ、手入れされ現在に至っている。今でも関雪桜呼ばれている。(Wikipediaより引用)

 

 

3月19日に桜の開花宣言が出てから一週間、通常ならほぼ満開の時期である。最も京都の桜開花標準木は気象台の敷地内であるから、この状況はいわゆる市街地という断りがつく事になる。

情報を集めてみると、哲学の道は現在4分咲きとの事、見頃の時期はやはり例年どおり、3月最終週から4月第1週であろう。

今年は異常に早い開花宣言であったが、自然の営みはやはり人間の予測を超えているようである。この自然の営みを思う時、やはり人間は自然の中で生かされているとの感を強くする。

平安神宮前の疎水沿いも見ごたえがあるが、市街地での桜花繚乱というとやはり哲学の道であろう。哲学の道は、熊野若王寺神社から銀閣寺橋までの間を指すようであるが、今出川白川の銀閣寺道に案内板がかかり、実質的にはここからのようである。


桜の時期、この道は桜見物の人たちで大変混雑する。しかし早朝ともなると人影はほとんどなく、まるで別世界の桜花繚乱を満喫できる。琵琶湖疏水と桜並木のみの道であるが、この道を歩いている時は、どこかゆったりした感じになれる。

時間に余裕があれば、道沿いにある法然院や安楽寺そして大豊神社、熊野若王寺神社へお参りするもよく、観光ルートとしても申し分ないようである。さすが日本の道100選に選ばれるだけの価値は十分にあるようである。

ところで京都の川は地理的に北から南へと流れるが、哲学の道の流れは琵琶湖疎水のため一般河川とは逆に南から北へと流れている。話のネタに流れを確かめながら歩くのも一興かも知れない。

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今年は早そう 御所 桜

2010年03月19日 | 日記

京都御所は、1869年(明治2年)の東京行幸まで歴代天皇の居所・執務所であった。現在は京都御所、京都大宮御所と仙洞御所宮内庁が管理し、その周囲の国民公園である京都御苑環境省が管理している。

現存の京都御所はもと里内裏の一つで、土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)と言い、1331年(元弘元年、元徳3年)、北朝光厳天皇が最初に使用した内裏である。ここにあった内裏は江戸時代だけで8回再建されており(うち6回は火災焼失による再建)、現存する建物は江戸末期の1855年(安政2年)、平安様式にならって再建されたもので安政内裏と呼ばれるものである。

1877年(明治10年)、東京の皇居に移っていた明治天皇京都を訪れた際、東幸10年も経ずして施設及び周辺の環境の荒廃が進んでいた京都御所の様子を嘆き、『京都御所を保存し旧観を維持すべし』と宮内省(当時)に命じた。

主な建物としては、紫宸殿(ししんでん)、清涼殿(せいりょうでん)、小御所(こごしょ)、御学問所(おがくもんじょ)、御常御殿(おつねごてん)、迎春(こうしゅん)、御涼所(おすずみしょ)、皇后宮御常御殿(こうごうぐうおつねごてん)、若宮・姫宮御殿(わかみや・ひめみやごてん)、飛香舎(ひぎょうしゃ)などがある。(Wikipediaより引用)

 

 

今年は暖冬と数年来からいわれ続ける異常気象によるものなのか、春の訪れが早いようである。こう異常気象といわれ続けると、もはや異常ではなく恒常的な気象に変りつつあると認識を新たにするのがよいようである。

さて、各地から例年と比べ数週間も早く桜の開花情報が聞かれ、そろそろ花の時節に入ってきたようである。京都の桜は、おおよその目安として3月最終週から4月第一週が見ごろと思っていたのであるが、これでは4月を待たずに開花してしまいそうな勢いである。

桜の情報を調べていると、京都では御所近衛邸の枝垂桜が満開に近いようである。なんと早い開花であろうか。


御所は春(4月中)と秋(11月中)に一般公開されている。通常御所の参観は宮内庁の許可が必要であるが、この一般公開の時は必要がない。しかし一般公開されている期間はそう長くないため、つい機会を逃してしまう場合が多い。

街中にありながら、京都御所が占有する広大な敷地にはいつも驚かされるが、御苑に踏み入れると再びその広さに驚いてしまう。桜はその広い敷地の中にスポット的に植えられている。桜の名所といわれるところは、とかく数による桜花繚乱で視覚を刺激するが、どうも御所は違うようである。


御苑のところどころで、おくゆかしく「春ですよ!」と告げるように花をつけているのである。

先ほど京都の知り合いから電話が入り、今日現在で醍醐寺の桜が開花、御所の枝垂れは満開との情報をいただいた。桜の名所である原谷苑や御室仁和寺は遅咲きであるが、この感じでは4月の10日頃には満開かも知れない。

お断りをしておくが、本ブログは京都の旅の回顧録であるので使用している写真はリアルタイムのものではない。旅の都度都度に撮りためたものを使用している。
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十三参り 法輪寺

2010年03月14日 | 日記

法輪寺(ほうりんじ)は、京都市西京区にある仏教寺院。山号は智福山。通称嵯峨虚空蔵。

名勝嵐山の中腹に位置する。本尊の虚空蔵菩薩が、「嵯峨の虚空蔵さんとして親しまれている。奥州会津柳津の円蔵寺、伊勢の朝熊山(あさまやま)の金剛證寺とともに「日本三大虚空蔵」と称される。

古くは、今昔物語集、枕草子、平家物語などにその名が見え、知恵、芸事の上達、また丑寅年生まれの守り本尊として信仰を集める。

また、十三参りや針供養、うるし祖神の寺としても著名である。さらに、境内には、電気・電波を守護する鎮守社である電電宮が祀られている。

寺伝によれば、行基が元明天皇の勅願により、五穀豊穣、産業の興隆を祈願する葛井寺として建立したとされる。その後、空海の弟子にあたる道昌が、虚空蔵菩薩像を安置し、寺号を法輪寺と称したという。(Wikipediaより引用)

 

京阪奈では、東大寺二月堂のお水取りが終わると春がくるといわれる。時期を同じくして京都嵯峨の虚空蔵さんでは、十三参りが始まる。私的にはこの十三参りが始まると京都も春近しと思える。

法輪寺へはかなり年数を経ての再訪であるが、参道と石段の景観が当時とは違う印象を受けた。当時は電電宮が石段のすぐ傍にあったように思うが、現在は少し離れたところにある。記憶違いでなければ、おそらく整備がなされたのであろう。

法輪寺の佇まいは、けっして派手なものではない。京都有数の観光スポットである嵐山のなかにあっても、普段は静かな境内のように思える。

法輪寺の桜は早咲きのようで、三月中というのに境内の桜が開いていた。また、法輪寺は嵐山の中腹に建てられているため、境内から近隣をも一望できる。

以前訪れたのは息子の十三参りの時である。この時は参道の石段を野猿が横切ったのに驚いた。昨年は、その息子の孫娘を連れて十三参りで訪れた。

年行事の十三参りである13日より少し早めのためか、境内は静まり返っていた。虚空蔵菩薩の前に座る事30分程度、無事にお参りは終了したのであるが、それまでの過程に「ふっ」と頬がほころぶような事があった。

この時、お参りの受付には若い僧侶の方がいたのだが、お参りまでに少しの間待ち時間が出た。「どうぞ」と言われて本堂の中へと進むと、受付にいた方が袈裟に着替え出てこられた。思わず同行していた息子夫婦と顔を見合わせたが、この早変わりに何ともいえぬ親近感をおぼえたのである。

昨今、京都の寺院では檀家は別としても、観光客などはあまりにも事務的に扱われる事が多い。この時の法輪寺のような営みには久しく出会った事がない。古きよき時代といえば語弊があるが、寺本来のありかたに触れた感じがしたのである。

十三参りの帰路、渡月橋を急ぎ足で渡る孫娘の後ろから声を掛けたのだが、一度も振り向かずに渡りきった。渡りきった後、くるりと振り向き両手でピースサインを出した。お参り前に話していた言い伝えをしっかりと覚えていたのだ。

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根本中堂と文殊楼 延暦寺

2010年03月11日 | 日記

東塔
延暦寺発祥の地であり、本堂にあたる根本中堂を中心とする区域である。根本中堂(国宝):最澄が建立した一乗止観院の後身。現在の建物は織田信長焼き討ちの後、徳川家光によって再建されたものである。1954年(昭和28年)に国宝に指定された。土間の内陣は外陣より床が3メートルも低い、独特の構造になっている。

内部には3基の厨子が置かれ、中央の厨子には最澄自作の伝承がある秘仏・薬師如来立像を安置する(開創1,200年記念の1988年に開扉されたことがある)。本尊厨子前の釣灯篭に灯るのが、最澄の時代から続く「不滅の法灯」である。この法灯は信長の焼き討ちで一時途絶えたが、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して現在に伝わっている。

文殊楼:二階建ての門で、階上に文殊菩薩を安置する。根本中堂の真東に位置し、他の寺院における山門にあたる。(Wikipediaより引用)


 

比叡山の山内は、東塔、西塔、横川と呼ばれる三つの区域に分かれている。 残念だが、私は東塔しか見た事がない。西塔、横川を拝観するとなると、おそらくまる一日を費やする事になるが、惜しいかなその時間をなかなか作れないでいる。

延暦寺には、いわゆる山門と呼ばれるような建物がない。その代りをなすのが文殊楼といわれる。この文殊楼はしっかりと滋賀の方向を向き、京都には背を向けている。名のごとく二階には文殊様が祀られているが、その階段は梯子といった方がとおりがよい程急なものである。

文殊楼が山門の代わりをなすため、その背後には延暦寺の総本堂である根本中堂がある。文殊楼は相当高い位置に建てられているため、文殊楼からは根本中堂を見下ろす形になるが、根本中堂を見るには絶好のアングルとなる。

ただ、この位置から見る根本中堂はそれ程大きいといった印象は受けない。しかし、根本中堂の前に立つとその建造の大きさに驚く。文殊楼と根本中堂は直線的にはそれほどはなれた距離ではなく、高低差を利用した目の錯覚をうまく利用しているように思える。このあたりは寺というよりむしろ城造りの印象を受ける。

数年ぶりに根本中堂を拝観したが、回廊の塗りに剥離が目立つなど傷みが進んでいるのには驚いた。しかし、お堂のなかは以前と変らぬ凛とした佇まいである。このお堂だけは他の寺院では感じられないどこか違う空気で包まれている。

根本中堂は屋根の葺き替え修復を行うようで、堂内には銅葺きの浄財を募っていた。ご利益は分からないが、銅版には自分のメッセージを書くことができるようである。銅版は意外と薄いものであったが、重さは結構あるようである。

根本中堂の出口で手に血がついているのに気がついた。中指の先に細い赤い筋が一本。この時は何処で怪我をしたか思い当たらなかったが、よく考えると銅版に触れた時、確かに一瞬鋭い痛みが。思いもよらぬ出来事であるが、お叱りを受けたのか、ご縁を結んでいただけたのか、果たして。

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最澄の足跡 比叡山延暦寺

2010年03月10日 | 日記

最澄は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれた。15歳の時、近江国分寺の僧・行表のもとで得度(出家)し、最澄と名乗る。20歳の時、奈良の東大寺で受戒し、正式の僧となった。最澄は、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、郷里に近い比叡山にこもって修行と経典研究に明け暮れた。

最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智(ちぎ)の「法華三大部」を研究した。延暦7年(789年)、最澄は現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた

この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(824年)のことであった。

時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。

延暦21年(803年)、最澄は還学生として、唐に渡航することが認められる。遣唐使船で唐に渡った。最澄は、霊地・天台山におもむき、天台大師智(ちぎ)直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学んだ。また、越州(紹興)の龍興寺では密教、禅を学んでいる。

このように天台教学・戒律・密教・禅を学び、四宗相承を伝えたことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持っていた。後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源がここにあるといえる。(Wikipediaより引用)

 

 

延暦寺の寺観も年数の経過とともに次第に変りつつある。宝物館が建てられた時、驚きとともにそれまで抱いていたイメージが壊され、いまだ足を入れた事がなかったが、この度初めて入る事とした。

宝物館の展示物は、お約束で撮影禁止である。宝物館自体はかなり年数が経っているはずだが、とてもきれいに保たれている。展示されている仏像も埃などあるはずもなく、とてもきれいに保存され、かつどれも見事な像ばかりである。

見事な展示物を見ながら、ふっと妙な疑問が涌いてきた。最澄が主として学んだのは天台智の法華三大部である。この叡山の座主に意義を唱え飛び出した日蓮も同じ法華である。最澄、日蓮ともに教義の真髄は法華一経と考えていたのではないかと思えるのだが、なぜ日蓮の教えは天台宗とか法華宗でなく、いまだ日蓮宗と呼ばれるのかである。答えはこれから探す事とする。

しかし、この場に至っても、仏像は寺の中ににあってこそ仏像であり、宝物館で保管される像はただの芸術品との私の反骨精神に変わりはない。芸術品ならば、博物館等で鑑賞すればよく、わざわざ比叡山の上まで足を運ぶ意味がないのである。

などと愚痴りながら大講堂へと向うのだが、大講堂までの道筋には最澄の生い立ちを語る看板が幾つも掲げられている。この看板はかなり以前からあったものであるが、その数が多くなっているのに驚いた。

・・・・・大講堂・・・・・

この看板を読むだけでも相当の時間が必要である。途中まで読み続けたのであるが、時間との相談で残りは撮って読む事としたのであるが一部を紹介しておく。





このような看板が大講堂までの参道に立ち並んでいる。

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