雪の庭園 三千院

2010年02月07日 | 日記

三千院は天台三門跡の中でも最も歴史が古く、最澄が延暦七年、東塔南谷(比叡山内の地区名)に自刻の薬師如来像を本尊とする円融房を開創したのがその起源という。円融房のそばに大きな梨の木があったため、後に梨本門跡の別称が生まれた。

貞観二年、清和天皇の命により、承雲和尚が比叡山の山麓の東坂本(現・大津市坂本)に円融房の里坊を設けた。この里坊を円徳院と称し、山上の寺院を円融房と称したという説と、円徳院と円融房は別個の寺院だとする説とがある。

元永元年、堀河天皇第二皇子(第三皇子とも)の最雲法親王が入寺したのが、当寺に皇室子弟が入寺した初めである。以後、歴代の住持として皇室や摂関家の子弟が入寺し、歴史上名高い護良親王も入寺したことがある。

坂本の円融房には加持に用いる井戸(加持井)があったことから、寺を「梶井宮」と称するようになったという。最雲法親王は保元元年、天台座主に任命された。同じ年、比叡山の北方の大原に梶井門跡の政所が設置された。

大原は古くから貴人や念仏修行者が都の喧騒を離れて隠棲する場として知られていた。藤原氏の権力が絶大であった当時、本来なら皇位を継ぐべき第一皇子である惟喬親王は、権力者藤原良房の娘・藤原明子が産んだ清和天皇に位を譲り、自らは出家して隠棲したのであった。

明治維新の際、当時の門跡であった昌仁法親王は還俗して新たに梨本宮家を起こし、公家町の寺院内にあった仏像、仏具類は大原の政所に送られた。明治四年、大原の政所を本坊と定め「三千院」と改称した。「三千院」は梶井門跡の仏堂の名称「一念三千院」から取ったものである。

正門にあたる境内南側の朱雀門は常時閉じられており、西側の御殿門から入る。城郭を思わせる寺周囲の石垣、白い土塀、門構えなどが門跡寺院の風格を示している。境内北側には宸殿、客殿とそれらを囲む有清園、聚碧園と呼ばれる池泉回遊式庭園がある。南側は、瑠璃光庭と呼ばれる杉苔でおおわれた庭園の中に往生極楽院が建つ。(Wikipediaより抜粋引用)

 

 

今回の三千院は、雪に覆われた庭が主である。三千院には聚碧園、有清園そして瑠璃光庭と呼ばれる庭がある。先にも書いたが最近になって大きく様変わりした客殿の広縁に広がるのが聚碧園である。聚碧園も十数年前に台風の被害を受け、残念な事に昔の面影を一部失ってしまった。

 

雪の庭木が水面に映る聚碧園を想像していたが、雪の降りが強いのであろう水面は実に重い感じである。雪が溶けきらず、まるで大きな麩が水面に覆い被さっているような印象である。さりとて、そこに広がる光景は期待を損なうものではない。まさに冬のうつろいに見せる聚碧園の一瞬の表情を垣間見る事ができた。

 

聚碧園には冬でも凍らないといわれる華厳音愛の手水鉢があるが、見るところ流水を使っている。流水が凍るためには氷点下の気温がかなりの日数続かなければならない。京都にあって、いかに寒い土地柄といえどもこのうたい文句にはすこし首をかしげる。逆にそれだけ寒いところである事を強調しているとも考えられる。

 

宸殿の前に広がるのは瑠璃光庭である。夏場には苔で覆われ、その様が見事でありよく観光パンフレットで目にするお庭である。だが、雪ともなるとさすがに苔による演出はできない。そこで存在感を出しているのは、杉木立や童地蔵である。

 

雪の木立はモノトーンの世界を作り出し、粉雪が被さる童地蔵は見る人の心の在りようで、如何様にも変幻するであろう。



 

冷えきったモノトーンの世界で、赤の一輪が一瞬心を温める。

 

春の桜、五月の新緑、夏の祭、秋の紅葉と京都には、多彩な表情がある。人によってはひとつき毎に表情を変える町だともいう。しかし、やはり雪の京都には別格の魅力がある。