近江八幡 6-2 八幡堀

2018年01月28日 | 日記

八幡堀の二回目になります。

西の湖と同じように、掘割りも小舟によるお堀巡りができます。

さすがに西の湖の料金は7、000円前後と高めだった記憶がありますが、このお堀巡りは大人1、000円と大変リーズナブルです。

12人乗りの和船ですが、乗り場は白雲橋のふもとにあります。

乗るつもりは全くなかったのですが、お連れがこの手のものには目が無く、乗ると云わなければいいなと思っていたところに、やはり乗ってみると言い出しました。

 

予約の団体さんがいましたが、シーズンオフですので待たずに乗船できました。

旬の時期ですとかなり混むのでしょうね。

 おおよそ30分程度で、堀の琵琶湖側にある瓦工場の処までの往復です。

お堀を見る目線がかなり下になるため、少し変わった風景が見られます。

***乗船場からすぐに白雲橋に***

***白雲橋を過ぎると明治橋が見えてきます*** 

桜でも咲いている時期であれば、また違ったものでしょうが、今回は冬枯れ周囲は閑散としたものです。

和船からの風景は、まぁ、こんなものでしょうかね、といった印象でした。

だからと言って、けっしてつまらないものではありません。

和船からの写真を一杯張り付けておきますので、見てみて下さい。

 

以前に、京都の平安神宮の琵琶湖疎水でも、桜の時期に観光和船に乗った事が有るのですが、その時もやはり想像したほどの絶景ではありませんでした。

どんな風に見えるのかな、といった人間の好奇心をうまくくすぐっていますね。

 

それでも、乗ってみようかなと思う方も少なくないかと思います。

乗る、乗らない、どちらがいいですかね?と聞かれた、そう答えます。

このような機会はそうそう訪れませんので、掴んだチャンスは生かすべきですよね。

何事も経験です。

料金もリーズナブルですし、実際に経験してみるのが一番です。

 遊覧コースは乗り場からすぐに白雲橋、そして少し進んで明治橋の下、その先に映画等のロケでよく使われている船着き場、荷揚げ場があります。

その先に進むと瓦工場となります。

 

お堀からの景色と対比して、お堀の上からみた風景を貼っておきますが、やはりお堀の光景はこちらの風情がいいようですね。

***ここが時代劇によく使われる船着き場ですね***

そうそう、この和船の長さは、お堀の幅と同じくらいの長さです。

どのようにUターンするのだろうと思っていました。

引き返すところに、Uターン用の幅が拡張されているのかと思っていたのですが、違いました。

お堀の幅ギリギリに、船頭さんが操縦し、和船をUターンをさせます。

 

これには驚きました。

さすがはプロですね。

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近江八幡 6-1 八幡堀

2018年01月27日 | 日記

ヤボ用に追われてすっかり更新が遅れてしまいました。

今回は八幡堀その1です。

 

近江八幡の観光名所というと、まず八幡堀が最初に上がるのではないでしょうか。

秀次が八幡城の築城の際に、城の防御と物資運用の両面を兼ねて造られた水路です。

琵琶湖から西の湖をとおり、近江八幡の旧市街を抜けて琵琶湖にもどるおおよそ5km余りの運河ともいえます。

 

近江八幡の楽しみ方に水郷巡りがありますが、ここは前回八幡山から写真左に見える西の湖界隈になります。

 

前回の写真で見るとわかりますが、あの位置から旧市街地を通り琵琶湖に戻るという長い水路で、よくぞ造ったなといった印象です。

 

この水路が、のちに近江商人を産み出すおおきな原動力となるようです。

近江商人の誕生には、いろいろな説があるようですが、以前懇意にしていました観光タクシーの方は(この方、相当に勉強されている方で、近畿圏の歴史、旧跡などにはかなり詳しいようです)、実はよくわからないというのが実情と話されていました。

 

日牟禮八幡宮の大きな鳥居を、知らぬ間にくぐると必ず渡る白雲橋ですが、この下が八幡堀になります。

春秋の桜紅葉時期はとても綺麗ですが、さすがに冬枯れ時期なると寂しい感じになりますね。

 

***冬枯れは寂しいので、春の模様も一枚のせておきます***

このお堀も、造られた当初から保存維持されていたわけでなく、かなり汚れて疲弊していたようです。

昭和の中頃に近江八幡の都市計画で、あらたに整備されて現在に至っているようです。

この状態になるまでには、土地の人の苦労があったようです。

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近江八幡 5-2 八幡山

2018年01月17日 | 日記

八幡山城、長くなりそうなので2分割としましたが、ようやく本丸へ・・・

と、いってもお城が残っているわけではありません。

 

息を切らしながら、急な坂道を登っていくと「村雲御所瑞龍寺門跡」の石碑があります。

門跡??

門跡となると、皇族が住職を務める寺ですが、秀次の実績からはなかなか天皇に結びつくものがピンときません。

八幡山頂上には、お城の石垣だけを残しお寺が建立されています。

このお寺が、村雲御所瑞龍寺となるわけです。

 

歴史に詳しい方には釈迦に説法ですが、秀次は秀吉の甥っ子、すなわち姉の子になります。

秀吉に後継ぎとされ、それまで名乗っていた孫七郎、三好信吉から豊臣秀次となります。

 

秀吉に秀頼が誕生して以来、状況が一変し高野山に追いやられ、殺生関白と揶揄され28歳で秀吉から切腹を命じられます。

歴史書は勝てば官軍の資料です。

敗者側の資料はまず出回らないと考えた方が良いようで、秀次も本当は32歳とされる資料もあるようです。

現在と違って、この当時の4歳という年齢はかなりの重みをもつと考えていいかと思います。

 

秀次切腹後、秀次の妻子の皆殺しを図り、京都三条河原で処刑が行われます。

秀次と家族は、今も京都三条高瀬川沿いにある瑞泉寺に祀られていますが、その昔地元の人はあまりこのお寺には近づかなかったと聞いています。

 

話を戻して、秀次の母が秀次の菩提を弔うために建てたこのお寺、寺号を時の後陽成天皇から賜り、菊の御紋章を許され勅願所となります。

寺格は黒御所と定められ門跡となります。

日蓮宗で唯一の門跡という珍しいお寺です。

 

山門をくぐるとすぐに本堂の前にでます。

山頂でもあり、さすがに本堂前のそれほど広くはありません。

 

本堂の前も、脚立などが無造作に置かれいるところは、京都のような観光寺院とは一味違う趣です。

 

頂上からの眺望もなかなか素晴らしいものがあります。

近江八幡の市街地、近江富士と呼ばれる三上山も遠くに見る事ができるようです。

この山から市街地を眺めていると、秀次という人物はなかなかの優れ者だったのではないかと思えてきます。

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近江八幡 5-1 八幡山

2018年01月16日 | 日記

近江八幡は豊臣秀次の城下町です。

秀次が秀吉から二十万石を与えられ、築城したのが八幡山城のようです。

八幡山はおおよそ300mの山、この頂上に城を築いたのですから当時、工事に携わった人は大変な苦労だったでしょうね。

現在は、この八幡山の頂上までロープウェイで行く事ができます。

麓から山頂の駅まで、おおよそ4、5分といったところでしょうか。

 

2011年に訪れた時は、7月で夏真っ盛りで、実は京都祇園祭の際に寄ったものでしたが、あまりの暑さに八幡山城を目前にして、熱中症になるよりはと登るのを断念した事があります。

 

今回は初冬ですから暑さの心配はありません。

八幡山中腹の遊歩道から展望台、そして八幡山頂上まで登り切りました。

三度目の訪問で、やっと頂上まで来ました。

 

ロープウェイの駅からまっすぐに登って行くと、程なく八幡山城へののぼり口と展望台への遊歩道の分岐点に出ます。

まずは展望台へと向かいますが、この展望台の位置はお城の出丸址になります。

しかしこの遊歩道ゆっくりとした登りで結構疲れます。

休み、休み進むと琵琶湖を一望する展望台へと出ます。

高さもあり結構な強さの風がありました。

遠くに掘割で作られた琵琶湖への運河を確認する事ができます。

よくもまぁこんな運河を作ったものです。

 

****琵琶湖が一望できます****

***同じ場所から超広角170度で撮った琵琶湖です***

出丸から西の丸方面に石垣沿いに進むと、北の丸の展望台へと出てきます。

石垣自体は痛みが進んでいるようですが、修復されているような感じは受けません。

本来なら北の丸から、八幡山城方面に抜けられると思ったのですが、11月初めの台風の影響で道が崩れ通行止めとなっていました。

 

北の丸の展望台からは、安土、観音寺城や水郷めぐりの西の湖が見えます。

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近江八幡 4 日牟禮八幡宮

2018年01月11日 | 日記

新しい年が無事に明けたようで、おめでとうございます。

更新が滞るブログですが、お暇な方は時々お寄りくださいませ。

早いもので、一月も11日目になりました。

11日というと鏡開きですが、気まぐれに由来を調べてみると、これが意外に適切な事をかかれた記事が見当たらないようです。

鏡餅は歳神様へ供えます。

すなわち正月とは歳神様をお迎えし、新しい年が無事に、平穏で、幸福でありますようにと、欲張りいっぱいにお頼みする儀式のようです。

しかし、いつまでも正月正月と浮かれている訳にはいきません。

そこで、歳神様のお迎えのために飾り付けた松等を外し、歳神様を送り出すわけです。

これで松の内が終わり、正月気分の終わりと一区切りにするわけです。

で、この松の内、七日もあれば、十五日そして二十日と地方によって日にちが様々です。

 

関東では七日、関西では十五日とやはり文化の違いがあり、日にちにも違いがあるようです。

また、関東もその昔は二十日正月となっていたようですが、二十日は徳川三代将軍の祥月命日にあたることから、その後日にちが変えられ現在の七日になっているようです。

 

そこで11日ですが、将軍の命日で松の内の日にちが二十日から七日に変わったので、鏡開きが十一日との説明が大変に多いのに気づきます。

でも、これって、なんで11日なのか、なんの説明にもなっていませんよね。

 

なかでも、これはそうかも知れないと納得の説明が一件ありました。

私はこれに一票を投じます。

 

その説明は、商家では十一日を仕事はじめとして蔵開きを行い、歳神様へのお供え物をいただく事によって、その年の無病息災、家の繁栄を祈願する日本文化。

 

日本文化というと、このような言い伝えは、年々薄れていってます。

私は節句などが来ると、そのいい伝えの中身を、孫によく聞かせています。

先日、たまたま見たTVで桃太郎のいい伝えを解説していました。

やっとこのレベルかと思って見ていましたが、一例を取ると、鬼の姿は、方角の鬼門、昔の時間でいうと、丑寅の方角、だから鬼は牛の角、虎のパンツを着けた恐ろしい架空の化け物なんですね。

おとぎ話は、話だけではなく、教訓が隠されていることを知る人が少なくなりました。

 

と、いうことで、神様つながりで、今年初めの近江八幡は日牟禮八幡宮からです。

立派な門構えをもつ大きなお社です。

神社というよりは、一瞬見た感じは山門かな?と思いますので、伽藍かと勘違いをしそうです。

門をくぐると、これまた立派な本殿そしてサイドに能舞台と、どう考えてもお宮らしからぬ造りです。

 

境内を進むと、山伏の恰好をした人達とすれ違いました。

何かなと?思っていると、本殿前でなにやら槙でしょうか?松でしょうか?いぶしながら行事を行っています。

 

この時期(11月20日)前後に、日牟禮八幡宮としての行事はありませんので、飛び込みの行事でしょうか?

 

煙に巻かれながら見物していると、なかなか手馴れています。

いつもこの八幡宮で行われている行事なのかと思ってしまいます。

周りには護摩がいっぱい積まれています。

本殿前に積まれた槙、松からは煙が上がってますので、炎がでてそこに護摩を投げ入れるのかなと思いましたが、どうも違うようです。

 

この位置で燃え上がると、危険ですよね。

大日大聖不動明王との大きなのぼりがあるのを見ると仏事ですよね。

神仏習合の見本みたいなものかも知れません。

 

まぁ、お不動さんつながりの儀式のようです。

大日大聖不動明王とありますから、おそらくは真言宗つながりなのでしょうね。

 

親しみを込めてお不動さんと呼びますが、大日如来の化身とされ煩悩を断ち切り厄を払うとされているようですが、実は実はお不動さんには恐ろしい一面もあるようです。

 

真言というと密教。

秘密の教えとなりますが、不動明王には人を呪縛により殺傷する能力もあるとされているようです。

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