住蓮山安楽寺は、鎌倉時代の始め浄土宗元祖法然上人の弟子、住蓮房・安楽房が鹿ケ谷草庵を結んだのが始まりである。
当時の仏教は、貴族仏教とも言われたように権力者や貴族たちだけのものであった。ところが法然上人は、末法の時代にあって、すべての人は平等であり、すべての人は「南無阿弥陀仏」に救われると説いたので、新興階級の武士や農民、あるいは救いの対象から漏れていた女性たちに広く受け入れられ、念仏仏教が大変な勢いで盛んになった。
元久元年、北嶺の僧侶が専修念仏停止を訴えた。これに対し、法然上人は七箇条制誡を門徒たちに示し、念仏の自粛戒慎を守る門徒の連署を座主に提出した。これが「元久の法難」である。
建永元年、上皇が紀州熊野へ行幸の際に、一日暇をもらった松虫姫、鈴虫姫は、清水寺に参拝し、その帰りすがら法然上人の説法を聞き、真の人間解放の道は、阿弥陀仏の絶対他力に求めるほかないと自覚した。
御所に戻ってからも、法然上人の説法が忘れられず、両姫は密かに申し合わせて夜更けに御所を忍び出て、鹿ケ谷草庵を訪れ出家する。
このことを知った上皇は激怒し、住蓮房を近江国馬渕において、安楽房を京都六条河原において打ち首の刑に処した。専修念仏の指揮者である法然上人を讃岐国に流罪にし、弟子の親鸞聖人を越後国に流罪の刑に処した。これを「建永の法難」という。
住蓮房・安楽房の亡き後、鹿ケ谷草庵は荒廃したが、流罪地から帰京し法然上人が両上人の菩提を弔うために一寺を建立し、住蓮山安楽寺と名付け、両上人の追善の寺とした。(Wikipediaより抜粋引用)
法然院から民家がまばらに建つ寂びた道を、南へと下がって行くと安楽寺がある。通常、一般拝観ができず萱葺の門前にはいつも柵が置かれており、立ち入る事ができない。門前を通る度に気にかかる寺院のひとつであるが、いまだ拝観ができないでいる。
七月二十五日のかぼちゃ供養の様子はテレビ等で流される事もあるが、ほんの数秒程度で寺院の中の様子は分からない。
かぼちゃというと秋のイメージがあるが、安楽寺のかぼちゃ供養は真夏に行われている。かぼちゃを食した効用は無病息災のようで、江戸時代から続く行事のようである。
このかぼちゃ、興味が有ったのでどの様なものか調べてみると、ひょうたんの形をしており、よく目にするまるい形のもではない。このかぼちゃのルーツは津軽の菊座かぼちゃとの事である。
さて、時期が冬であるので安楽寺の雪景色であるが、例によって門からは入る事ができない。そのため門の外から見る事ができる参道の前庭の数枚しかない。
門外からみる庭は、寺院創建に由来する大きな出来事があったとは、とても想像できないほど実に静かな佇まいである。
通りから見かける静観な門構えに魅かれ、いつも石段をあがっては庭のうつろいを眺めてしまう。