ディジタルコピー? 智積院

2010年02月19日 | 日記

智積院は、京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院である。山号を五百佛山、寺号を根来寺という。本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥である。

智積院は、もともと紀州根来山大伝法院の塔頭であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁(かくばん)が、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、根来山内の学問所であった。

近世に入って、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年根来攻めで、全山炎上した。玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。

関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年、家康は東山の豊国神社の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられて、復興後の智積院の寺号を「根来寺」、山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」とした。

祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。

東大路通りと七条通りのT字路に面して総門が建ち、その先には講堂、大書院、宸殿などが建つ。大書院は桃山城の遺構といわれる。大書院に面した庭園は千利休好みと言われ、国の名勝に指定されている。幕末には、学寮が土佐藩屯所になっている。(Wikipediaから抜粋引用)

 

 

寺院のもつ歴史とは裏腹に、新旧入り交ざり何とも複雑な印象を受ける寺である。金堂と講堂は最近になって建てられたものである。

智積院の売りとなっている長谷川等伯、久蔵作の楓桜図は、収蔵庫と呼ばれる建物に保管されている。収蔵庫という呼名は妙な響きであったが、一般にいわれる宝物館に似たものなのであろう。保管されているものが、楓桜図に関連する襖絵に限られているようなので、このような名前にしているのであろう。

収蔵庫のなかでは、学芸員もどきの方の定期的な襖絵の説明がある。肝心の楓桜図であるが、想像していたよりは相当大きいサイズである。絵の直近よりしげしげと鑑賞される方が多くいたが、私的には少し離れたところから眺めると一段と迫力が増すようである。筆使いを論じるほどのスキルを持ち合わせない者にとっては、やはり全体を見る事ができる距離をとるのが良いようである。勿論撮影は禁止である。

智積院でまず驚いたのは、大書院の襖絵である。桜楓図の複製版が書院全体に広がる。ここでも学芸員もどきの方の説明がされていて、「どうだ!!」と言わんばかりである。しかし、書院全体の構えと比べると、何と表現してよいのか迷ってしまうような妙な雰囲気を感じる。確かに見た目は派手なのだが、しっくりこないのである。




大書院に面した庭は、中国廬山をモデルとした名園。写真のひとつはバチを模ったもの、もうひとつは羅漢さんを模っているとの説明を受けたが、いろいろな教訓が組み込まれているようである。庭にまつわるご高説をしばし拝聴した後、さらに驚く事に出会ってしまう。


撮影禁止と告げられた大書院の奥には、各々の間に文化財クラスの水墨画が展示されている。だが、そのなかの一間の襖絵に堂本印象画伯の何ともハイカラな明るい色彩の近代画が占領している。寂びのなかに一転異彩を放つ光景をいかに捉えるかが問われる。

この襖絵の捉え方については賛否両論あるようであるが、その光景をブログ上でお見せする事ができない。気にかかる方は実見するしかないが、美術センスがない私には否である。