プリミティヴクール

シーカヤック海洋冒険家で、アイランドストリーム代表である、平田 毅(ひらた つよし)のブログ。海、自然、旅の話満載。

虹色のグラデーション

2012-05-31 10:52:10 | インポート
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 先日、来たる6月10日(日)に行う湯浅~紀伊田辺間
 50キロツアーの下見でそのコースを漕いできました。

 紀伊半島を南下してゆくコース。
 何度漕いでも、岬一つ越えるごとに
 だんだんだんだん黒潮の香りや気配が微妙に、
 グラデーションのように濃くなっていくのが感じられて、
 好きなコースのひとつです。

 海のブルーの物理的な色の変化もありますが、
 頑張って漕ぎ続けて漕ぎ終えた充実感の中では、
 いわゆる黒潮フィーリングってやつが、
 心の中のキャンバスで、
 まるで虹色のグラデーション変化のように広がっています。
 実体験により、心の中でのみ描かれる色彩。

 というとクサく聞こえるかもしれないけれど、
 海の鼓動そのものとひとつになるシーカヤックの世界では、
 すくなくともぼくは、テクニックや道具うんぬんのウンチクより、
 そんなふうな目に見えない感性の世界にこそ、
 無限の魅力が広がっていると確信しています。

 ただ50キロとなるとそれなりの漕ぐ力と体力を要します。
 だけどそれくらい漕いで、岬をたくさん越えていかないと
 心象風景として立ち現れるレベルの変化を五感で捉えることは
 難しいです。

 これもシーカヤックの面白いところだけど、
 「感性の世界」とか「目に見えないフィーリング」とか、
 そんなナヨナヨしたオカマみたいなことを言うためにこそ、
 体力が必要だったりします。

 まあ、今回のはそんな屈強な猛者みたいな体力までは
 要しないですけれどね。

 50キロツアーの要項はこちら。
 http://homepage3.nifty.com/creole/longtour.html


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連日鷹島

2012-05-27 22:03:14 | インポート
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 昨日今日と連日で鷹島(湯浅湾)へのツアーだった。

 浜辺の石を拾って生涯大事に持っていた明恵上人が
 「我なくてのちにしのばん人なくば、飛びて帰れね鷹島の石」
 (私が死んで誰もかわいがってくれる人がいなくなったら、
  故郷の鷹島まで飛んで帰るんだよ石さんよ)
 という句を詠んだ、その鷹島だ。

 帰ってきてやっと落ち着いた状態で聴くBGMは
Rakesh Chaurasia and Talvin Singhのこんな曲だ。
http://www.youtube.com/watch?v=M3fTp9TAugI&feature=related 

 なかなかの空間にマインドを飛ばしてくれる。


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金環日食キャンプツアー

2012-05-26 06:54:06 | インポート
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 おかげさまで先日の金環日食キャンプツアーも無事楽しむことができました。
 参加者の皆さん、ありがとうございました。

 小さい気圧の谷の影響で
 初日のキャンプでは雨が混じり、
 翌朝も雲が空全体を覆う天気でしたが、
 ちょうど日食のときには雲が微妙に途切れがちになり、
 雲の合間から観察することができました。

 雲のおかげで太陽光線のぎらつきが押さえられ、
 それがちょうど天然の日食レンズのような効果を生み出し、
 裸眼でも十分見ることができました。
 まるで計算していたかのように、
 食の最大の7:30分頃に一番いい感じで見える状態に
 なってくれました。

 焚火を囲んだ夜のキャンプから、
 翌朝の日食観察。
 そしてやや大きいうねりの中でのシーカヤックツーリング、

 日常生活から抜け出して、
 自然の懐に完全に入りこんだ中でのツアー、
 なかなか忘れがたい2日間となりました。

 そして終わって数日がたち、
 みんなが散り散りに日常生活に帰っていった今、
 少しさみしいような何とも言えない気分がしています。

 そして季節は夏へと近づいていきます。

 次から次へと色んなツアーを繰り返し、
 様々な人たちと出会い、また別れゆく。
 別れたかと思うと、また再会したりする日々

 まるで次から次へと試合を繰り返していく
 格闘技選手のような気分。 
 
 その中心にいつも、海がある。


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プロフィッシュ45・バイキングカヤック

2012-05-18 12:04:31 | インポート
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 アイランドストリームの試乗艇であるヴァイキングカヤックのプロフィッシュ45を色々試してみたいということもあり先日、湯浅湾でカヤックからガシラ釣りに興じました。
 まあまあ釣れましたが小さいやつはリリースしました。
 煮つけにしてとてもおいしかったです。

 この艇にはイケスとまな板がついているのがユニークなところです。
 釣った魚を生きたままキープすることもできますし、
 すぐにしめることもできます。

 ただ年季が入ってくると、
 マナ板のところが赤くシミになってちょっとイカツい感じになってしまうかもしれませんが
 それもまた味になるかもしれません。

 いずれにしろそれくらいになるまで使用すると愛着が出るでしょうね。

 アイランドストリームいちおしのフィッシングカヤックです。
 詳細はこちらを要チェック


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ロックのDNA

2012-05-18 10:39:44 | インポート
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 アウトドア、特にシーカヤックの体感と音楽との相性は抜群によくてジャンル問わずなんでもかんでも雑食的に聴くけれど、中でも反逆精神に満ちたロックはかなり色々聴いてきましたね。その反発的だけどポジティヴな「気」のみなぎりみたいなものが、他の音楽にはないロックの魅力になっていたりします。「経済効率一辺倒のこの世の中のすべてのものはクソだ。絶望的だ。だからおれが面白いものを作り上げてやるぜホトトギス」という、挑戦的なポジティヴィティですね。

 と言っても今のロックには反権力とかそんなパワーはなくて、むしろロックとは関係ない別のジャンルの音楽にひょこっとロック的反骨精神を感じたりします。

 ロックの中にそんな「気」がみなぎっていたのは1960年代から70年代前半のビートルズとかストーンズとかジミヘンドリックスとかレッド・ツェペリンの時代で、70年代後半から80年代前半にかけてはジャマイカのレゲエやロンドンやニューヨークのパンク、そしてその後90年代前半まではヒップホップと、そのロック的反骨DNAは移っていきました。ストリートやアンダーグランドから生まれたそんな音楽はやがて巨大産業と成長するやいなや洗練されると同時にパワーそのものは骨抜きになっていき、若々しき反骨DNAは別のジャンルにお引っ越ししていったというわけです。

 ちなみにスティーヴ・ジョブスなんかはまさにそういうロック精神の持ち主でしたね。彼の交渉術とかプレゼン能力とかばかり取りざたされますがそんなのは些事にすぎなくて、ロックの魂こそがジョブスのコアの部分だったと思いますね。
 
 さて、2000年代に入り欧米系ロックは全滅したなあ、もうそういう音楽はなくなったのかあなあと思っていると、イギリスのインド系移民のAsian Dub Foundationって連中なんかにそんなエネルギーが感じられました。
 移民系ですね。ロンドンやパリやバルセロナやドイツなどに在住するアフリカやインドからの移民系の、ロックとかレゲエとかヒップホップとか民族音楽とかがごちゃごちゃに混ぜ合わせれたミックス音楽。

 考えると移民の人たちなんて最も虐げられ抑圧された存在で、だけどよりよく生きていきたいという思いから移民するわけで、胸の内になにかを渇望するエネルギーが渦巻いていることが容易に想像できます。そこに2001年の米同時多発テロ、報復的なアフガン空爆、イラク戦になだれ込む時代背景において、ナショナリズムの台頭とか移民排除の機運とかが揺れ動く中、より感受性の強い若者たちの文化も出てきました。
 戦争とか差別とか抑圧ではなく、「New Way ,New Lifeを」と渇望する文化。
 そこにロックのDNAを感じましたね。
 
 中でもアルジェリア出身バリ在住のアマジーク・カテブっていう人が率いる「グナワ・ディフュージョン」というバンドが2003年に出した「souk system」っていうアルバムは、ロックが遥か昔に失った反骨的な気に溢れていました。北アフリカの民族音楽をレゲエやヒップホップのグルーヴに乗せテクノ風に音処理したサウンドで、そのアルバムを通して北アフリカのアラブ文化にはものすごいエネルギーがあるのかもしれないなと感じられました。2010年に、チュニジアから端を発し北アフリカから中東全域にかけて広がっていった「ジャスミン革命」が起こったときには、あのエッセンスが具現化されたのかなと考えたりしました。

 アマジーク・カテブのお父ちゃん、カテブ・ヤシーンはアルジェリアの有名な詩人であり、名もなき民衆の反逆的精神を映し出したような詩を書いていたようです(日本語に翻訳された詩集もあるようです)。

 グナワディシュージョンは惜しくも2007年に解散しました。なんで解散したんだ、最高のバンドだったのにもったいないなあと思っていると、2010年にリーダーのアマジーク・カテブがソロアルバムを出しました。なるほどなと思いました。バンドを運営・維持するにはメンバー全員が食えなきゃいけないわけで金がかかりすぎる。CDなど売れない今の時代、大所帯のバンドを維持していくには想像以上のコストがかかる。そうすると金のためにやりたくない仕事もたくさんこなしていかなきゃいけない。というわけでソロになったんだろうなと想像できました。
 お父ちゃんの詩を下敷きに作られた曲が並んでいたりして興味深いです。
 
 アマジーク カテブさんの音楽はこんなのです。
http://www.youtube.com/watch?v=jh8ABQvbkhw&feature=related

 アラブ系の反逆ロックはまだ熱いようで、たとえば先日ドイツ在住のイラン人のラッパー、シャフィン・ナジャフィって人は、イランの宗教指導者を冒涜したとして、首に800万円の懸賞金をかけられて追われている身になっていますが、そこまでして表現しようとするというのもすさまじいロック的精神だと思います。こんな音楽です。
http://www.youtube.com/watch?v=px9H7V3tgNk&feature=related


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飯盛山ライトトレッキング

2012-05-18 08:25:54 | インポート
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 先日、日高川町にある飯盛山(537.9m)をライトトレッキングしてきました。

 ぼくの住む和歌山・湯浅から山一つ越えて日高町・日高川町に入るとなぜか太陽光線がより鮮やかに、緑もより濃くなり、いっそう南の気配が感じられてくるのですが、もちろん車でダーっと走って移動してもそんなことは分からない。

 2本の腕で海を進んだり、2本の足で山に登ったりすることによって初めて分かる、微細な変化。
 それは自然がひとつのシークレットを語りかけてくれたような気がして、豊かな気持ちになれるものです。

 特にこの季節のこのあたりの緑の鮮やかさは独特でいいものです。
 頂上からは日高川の川筋が見え、さらに御坊から日の岬にかけての太平洋がダーっと広がる姿も雄大感があります。

 ただここは時間的には3時間ほどでライトトレッキングの部類に入るけれど、急斜面を登るのできちんとしたシューズが必要になりますね。


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魂で遊ぶこと

2012-05-15 15:35:41 | インポート
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 「海の波うねりとは連続的なリズムそのものであり、全身で波うねりと調和して進んでゆくシーカヤックとは極めて音楽的な経験である」とぼくは10年くらい前からずっと言い続けていますが、最初は結構アホ扱いされましたね。悔しいな、やはり日本のスポーツ系の人は体育会系の流れにある人が多くて保守的で面白くねえのかもな、とホゾを噛んだこともしばしばでした。また逆に文化系の人は身体を使わないインドア派ばかりなのでこれまた分からない。というわけで話の合う人が地球上にはいないもかもしれない、ツライなあと思う日々もありましたが、だんだんぼくのような意見も受け入れられるような世の中になってきつつあり少しずつ居心地がよくなってきた感があります。

 これから5年、10年と経つにつれてそういう自然における身体感覚とアートとを結びつける流れはさらに高まってくるように思われます。そして100年、200年とか1000年とか経ってもなくならん普遍のものになるだろうと思います。
 「ほう、大きく出たな」と言われるかも知れませんが、別にぶっ飛んだ意見を言ってるわけではなく、大昔は人間はみんなそういう世界観で生きていたのだから、当たり前だと思うわけです。

 たとえば縄文時代の人々が作っていた土器の文様とか見たら一目瞭然でわかりますが、あれなんかめちゃグルーヴィにうねってて実に音楽的ですね。自然の内奥のリズムを捉えて作ったなとすぐに分かります。自然のリズムと共に生きてきた人たちの身体感覚が表現されたものだと、一発で分かります。

 で、「自然のリズムと調和する」という価値が少しずつ尊ばれるようになった21世紀に入り、その流れで登山、サーフィン、カヤックなどアウトドアスポーツに興じる層が増えてきました。そしてその可能性をもっと探っていこうと考えたとき、やはり「自然のリズムと調和して生きてきた先史文化」に着眼的が向かうというのも当然のことです。

 アメリカインディアンの賢者の言葉とか、アボリジナルアートとか、ポリネシアンのスターナヴィゲーションの知恵とかを本読んだりして研究しつつ、自分の興じるアウトドアスポーツにどう生かしていこうかと考えるのは、最高に面白い遊びです。


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地球を描く体感アート。

2012-05-08 12:48:19 | インポート
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 一昔前まで「瞑想」などと言うとちょっとヤバい感じの精神世界系の人か、それかもう正統派の禅僧みたいな人のみが傾倒するものだと思われるフシがありましたが、いつの間にかオシャレ系のファッション雑誌などでも取り上げられるようになったりとすっかりポピュラーなものになり、世の中の変化とは面白いものだなあとつくづく思ったりします。

 メンタル面での健康も大切にし、生活のクオリティを上げていこうという、
 成熟文化の流れが背景に見え、いいことだなあと思います。
 こういうものははやりすたりとか関係ないですしね。
 
 ただぼくの場合、
 瞑想とかヨガとかの教科書に書かれてあるようなやり方が苦手で、
 呼吸を整えたり、ポーズとったりすると、
 そのことに意識が取られてしまって、なんかしっくりこない。
 ふと時計見たりして「あれ、まだ5分しかたってないんか」とか
 しょうもないことを考えてしまう傾向にあります。

 また、ただただ自分の精神の内側に入っていくというのも苦手です。
 己の至らなさとか、いらんことを考えてしまうからね。
 「無」の境地とかいうやつもよくわからない。

 どっちかというと内側に入っていくというより、
 外界とのつながりを意識しつつ、マインドをトリップさせるほうが面白いですね。
 
 たとえば今ここに吹いてる風を肌に感じながら、
 今なんでここにこの風が吹いてるのかな、と想像し、
 そこから類推する天気図を心に描いてみるとか、
 自分が水陸両用の鳥になって、
 恐竜とかが闊歩する2億年前のゴンドワナ大陸を旅してみるとか、
 そんなのが好きですね。

 緑濃い紀伊半島の山々に入っていって、
 黒潮のエッセンスを心に描くとかもそうだけど、
 皮膚感覚とか体感が伴ってこそ、
 瞑想が成り立つってところがありますね。
 
 っていうか、瞑想だと意識するともうだめなのかもしれない。

 意識しない瞑想ってなるとやはりシーカヤックだと思いますね。
 なんせ命がかかってくるわけだから、特に自分ひとりで漕ぐとき、
 普段より何倍も天候や海況、地形なんかに意識を研ぎすませます。
 そうすると自然現象のメカニズムの不可思議さとか、
 地球上のありとあらゆる自然場所の面白さとか、
 これまで訪れた様々な場所での体感的記憶とか、
 それらすべてを包み込む宇宙から見た地球の青さだとか、
 そんなものと自分自身の魂とのチューニングが自然に合い、
 いわゆるひとつの「プラネット感覚」の豊かさが、
 心にしみわたってくるようなのです。
 
 この独特の浮遊感の中、
 多分シーカヤックほど瞑想的な乗り物はないんじゃないかと思いますね。

 海から上がってもしばらくは海の波うねりのリズムが身体の芯に残っています。
 その状態で音楽を聞くという行為も、
 音楽の底に流れるリズムやグルーヴと同調でき、
 極上の瞑想だと言えますね。

 以前シーカヤック日本一周旅の途上、何カ月も海上生活をする中で、
 どの音楽を聴いてもまるで自分の身体感覚と、
 音符一粒一粒とが同化して流れうねるような体感になり、
 というか音楽そのものになったような気がして、
 おれもついにヤバい人の領域に入ったのかなと思ったことがありました。

 和歌山の潮岬とか九州の佐多岬とか黒潮のぶち当たる岬を
 ビビりながら越えたときの達成感等もヤバい系かもしれんと思いますね。
 黒潮と同化したような気分する瞬間あるからね。
 本物の野性の炎が心にともる瞬間。

 昨日は湯浅湾の鷹島を見ながら沖縄音楽を聴いていると
 なかなかトリップできましたね。
 水平線の向こうに沖縄が幻のように浮かんでくるような感じがありました。

 ぼくだけの傾向なのかもしれませんが、
 究極的に地球を思い描く瞑想が合っているのかもしれないなと思いますね。
 だから洞窟の中で座禅を組み精神の内側に入っていくとかは絶対無理ですね。
 で、多分、ほとんどの人はプラネットアースを描く瞑想の方が、
 向いてるんじゃないかと思ったりもします。


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始まりの終わりか、終わりの始まりか

2012-05-07 09:42:55 | 震災や原発に関連する事
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 5月5日に泊原発3号機が停止し、現時点で日本の原発がすべて停止状態になりました。
 このまま終わりにしてもらいたいもんです。

 別に原発はなくても、電力は困らない。
 しかしこれまで54基も作ってきた。
 どういうことを意味しているのだろう?
 国策? じゃあなんのために?
 どういうヴィジョンで、誰のために?

 突っ込みどころ満載だけど、マスメディアはあまり突っ込まない。
 なぜか?
 そのこととその本質に関連する社会の微に入り際にわたる様々な事象を考えるとしばし、日本が嫌いになる。

 だけど永久停止してくれると、それすらどうでもよくなる。
 このまま原発、終わりにしてしまえば、反対も賛成もどっちでもよくなる。
 なぜか?
 ないわけだから、
 「ガタガタ言ってもしゃあない」次元に入るからね。
 (これまでは、「あるわけだからガタガタ言ってもしゃあない」の世界だった。それが裏返るというわけだからどんなにすがすがしきことだろうか)。

 被害やリスクを特定できない巨大な化け物館、
 出した汚染物質を処理すらできない幼稚な怪物、
 最初からいらなかった。

 原発を終わりにすることで新たな日本はようやく始まる。
 逆に、再稼働すると日本そのものが終わる。
 未来へのスピリットを殺すことによって、
 既得権益層だけがだらだらと逃げのびるスタイルを
 採用するわけだから。


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