いよいよ九州攻めが始まりましたね
秀吉が九州に赴く一年前から官兵衛は九州に行き調略によって
島津を除く殆どの武将を味方に引き付けています
圧倒的な武力を背景に九州に攻め込む豊臣軍に敵う筈もなく降
伏する島津軍
今の時代から見れば何故?島津は豊臣と戦ったのか?と疑問に
思ってしまいます
情報量不足だったのか?それとも藩祖が源頼朝の落胤だったとさ
れる島津が農民上りの秀吉に屈服するのをよしとしかったのか?
どちらか一方的な理由ではないと思いますが、決定的に情報量が
不足していたせいだと僕は思っています
ドラマでも描かれていましたが、毛利の中で元春だけは秀吉に臣従
するのを嫌がっていた節が有ります
九州攻めの三年ほど前、嫡男・元長に家督を譲り隠居しますが、隠
居所の名前が何とも…
吉川元春館、そのままですよね。
元春らしいネーミングです
秀吉の命令で病を押して出陣した元春ですが、小倉城で亡くなりま
す
不幸はまだ続きます。
一年後、嫡男元長も出征先の日向で四十歳という若さでこの世を去り、
後を継いだのが関ヶ原の戦いで家康に内通し毛利本家を残した三男
吉川広家。
広家は元春が隠居し元長が家督を継いだ時人質として秀吉の元に出
されています
おそらく、官僚が幅を利かせていた豊臣政権が長く続かない事を肌で感
じていたのかも知れません。
関ヶ原では黒田長政を通して家康に内通したとされる広家ですが、内通
の遠因がこの辺りにありそうですね。
父・毛利元就は正室、継室、側室との間に十人以上の子を儲けています
が、隆元・元春・隆景の三兄弟は側室を持たなかったと言われています
子供を沢山儲けるのもこの時代の武士の仕事ですが、何故でしょうかね??