忠盛亡き後、平氏の棟梁となった清盛ですが、気だけが先走っている
感じですね
棟梁の妻となった時子の方が清盛に比べて自然体に見えます。
清盛と時子、平家の棟梁夫妻として一族郎党を引っ張っていかなけれ
ばなりませんが、慣れと経験がまだまだ必要なようです
藤原家成が催した歌会で清盛が詠んだのが『重盛に 基盛 それに清
三郎 清四郎 みなわれらの子なり』。
崇徳上皇がつぶやいたようにこれは歌ではありません
いくら和歌が苦手とはいえ、もう少しどうにかならなかったものでしょうか
しかし、よ~く見ると5→7→5→7→7と和歌の形式にはなっている様で
す
季語はありませんが、重盛に→基盛それに→清三郎→清四郎みな→わ
れらの子なり
短歌では同じ形式で川柳がありますが、和歌の川柳擬きでしょうかね
兄の崇徳上皇と弟の後白河天皇、兄の藤原忠通と弟の藤原頼長、権
力をめぐる兄弟による骨肉の争いが保元の乱の原因であったのは間
違いありません
朝廷と摂関家の内紛に武士である平家と源氏も関わらざるを得ません。
清盛と忠正の関係は分からなくもないのですが、為義と義朝の関係が
いまいち??
保元の乱の際、父子が敵味方として戦ったのですが、義朝が嫡男で次
期棟梁として認知されていたとすれば父子が分かれて戦うなど考えら
れません。
自然に考えると義朝は廃嫡されていた可能性があります
源氏の棟梁は為義ですが、義朝がすんなり家督を継いだのではなく実力
で源氏の棟梁となった可能性が大きいと僕は思っています
1135年におきた大蔵館事件、義朝の長男・義平が叔父・義賢の館を襲撃
した事件です
義賢は殺され東国一円が義朝・義平親子の支配下になった事件ですが、
何故、このような事件が起きたのでしょうか??
義朝が関東に下ったのは為義に命令されたのではなく父・為義との仲が険
悪だったからだとも言われています
関東にくだった義朝が下野守となり勢力を伸ばすのですが、義朝に家督を
継がせたくない為義は次男・義賢を関東へ派遣します。
関東で義朝の勢力が拡大するのを防ぐ為だと考えるのが自然です。
長男・義平をして東国を押さえていた義朝にとって身内から敵が出た訳です
ね
一連の動きを見ると義朝の廃嫡はどうやら間違いなさそうです
保元の乱の後、父・為義の助命を嘆願する義朝ですが、信西に拒絶され仕方
なく斬首します。
もし、報償に代えて助命嘆願していれば為義は流罪で済んだ可能性が高いと
僕は思っています
自分の官位を投げ捨て父の命を救ったとなれば義朝の名声も高まっていた筈
です。
もし、清盛と義朝の立場が逆ならば清盛は間違いなく官位を捨ててでも父の命
を救ったはずです。
義朝は政治力では清盛と比べほど遠い感じですね
何れにしても源氏特有の争いはまたまだ続きます