石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 東近江市建部下野町 弘誓寺宝篋印塔

2007-04-07 12:17:10 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市建部下野町 弘誓寺宝篋印塔

白壁に囲まれた立派な境内に入り、本堂向かって右方、墓地の入口に近世の歴代住持の無縫塔が並ぶ一画があり、その中央に高さ2mを越す宝篋印塔がある。扁平な切石を基壇状に敷いた上に建ち、背の高い基礎上は反花式で、側面は四面とも左右が広い輪01_4郭を巻き格狭間を入れる。3面は格狭間内を無地とし1面には三茎蓮を飾っている。格狭間の形状は全体に縦長で、上部は、中央の花頭形は幅を失って収縮し、 脚先が直角に高く立ち上がって退化形式といえる。反花は高さのある抑揚のある複弁タイプだが全体的に彫成は平板である。中央に1弁、左右の隅弁の一辺当たり3枚で、中央弁の左右の間弁は先がのぞく程度になっている。弁先に高さがあって、側辺面との距離はかなり詰まって退化した形式となっている。塔身は月輪をずいぶん上に偏って陰刻し、上方は塔身上端からはみ出すくらいになっている。金剛界四仏の種子を浅く小さく陰刻するが、これも上に偏っている。笠上6段、下2段で、軒がかなり薄く、隅飾は二弧の薄い輪郭を巻き、茨の位置が低く軒からはかなり入って立ち上がり、直線的に外反する。下側の弧の幅が広く隅飾間が狭い。輪郭内は無地のようである。笠上の6段は逓減率が小さめで露盤にあたる頂の幅が広い。相輪は完存しており、伏鉢の側面は直線的で、請花との間のくびれが急で深くV字形を呈する。下請花は複弁で高さに比して上の径が大きい。九輪は逓減が大きくかつ短く、所謂「番傘」スタイルに近づいている。上の請花は単弁でやや押しつぶしたような半球形で、宝珠とのくびれは大きく、宝珠は重心をやや上に置いて曲線に削り込みが足りず筒状に近い。先端の尖り部分を少し欠損するが尖りの程度がやや目立つ。基礎の三茎蓮のある面の輪郭左右に「永正14(1517)年丁丑11月1日敬白/志施勧進□算」と銘文があるという。永正の文字は肉眼でも容易に確認できる。川勝博士は“志施”という表02_4現は古い時代にはみかけないとされている。(※1)花崗岩製、高さ約208cm(※2)で7尺塔と思われる。南側の築地塀沿いにもう一基、小ぶりの宝篋印塔がある。欠損する 相輪の先端を除く高さ109cm(※2)で元は4尺塔と思われる。2段の切石基壇の上に建ち、基礎は壇上積式で、束石の幅がやや広め、四面とも側面に格狭間を設け、内に三茎蓮を入れ、基礎上2段となっている。格狭間の花頭形の中央が幅を失って萎縮ぎみで側辺の曲線もやや角張りスムーズさに欠ける。塔身は金剛界四仏の種子を薬研彫する。キリークはなぜか月輪からはみ出している。笠は上6段、下2段で、軒と区別して二弧内部無地の輪郭を巻き、軒と区別して直線的に外反する。相輪は九輪の8輪目から上を欠損する。伏鉢は高すぎず低からず、曲線もまずまず良好。下の請花は複弁でやや高めだがスムーズな曲線を保っている。九輪の凹凸はハッキリしないタイプである。花崗岩製。小型だが全体のバランスがよく、永正塔よりは古いものと思われるが格狭間の退化形式などから南北朝期のものと思われる。

参考

※1 川勝政太郎 「近江宝篋印塔の進展」(六) 『史迹と美術』368号

※2 八日市市史編纂委員会編 『八日市市史』第2巻中世 636~637ページ

※ 滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』 126ページ