石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 甲賀市甲南町竜法師 金龍院宝篋印塔

2007-04-15 09:44:55 | 宝篋印塔

滋賀県 甲賀市甲南町竜法師 金龍院宝篋印塔

甲賀流忍術屋敷(甲賀武士53家の筆頭、望月出雲守の住宅を利用した観光施設、この付近の丘陵は甲賀武士達が築いた中世城館群が密集している)から200mほど南方にある金龍院の山門を入ると左手墓地の入口に建つ宝篋印塔がすぐ目に入る。02_5(墓地の南北に2基の宝篋印塔があるので北塔と呼ぶ。)現高約210cm、花崗岩製。反花式の台座を直接地面に置く。コンクリートで固めている。その下に切石基壇のようなものは確認できない。反花座がとりわけ立派である。側面はかなり低く、反花の弁先がオーバーハング気味に側面と同一面までせり出す。反花部分は、奥行きを広くとり、傾斜の緩い穏やかな曲線を示す。手の込んだ花弁は手が込んでいて通常の複弁の中にもう1重のトリムがあって3重になっている。一辺あたり主弁が5枚あり、間弁も根元まできっちり彫刻され、その先端もまっすぐ切ってヘの字にするのではなく奥行きをもたせている。隅が間弁になっているのは大和系の意匠。さらに塔本体の基礎を受ける方形受座を2段にしており、反花から続く低い一段を経てもう一段高く受座を設けているのは非常に珍しい。台座は中央で「田」の字状に前後左右4石に別れており、中央に向かって落ち込み気味になってセメントで補修されている。Photo_6 台座下の地盤がしっかりしていないことに起因する現象と思われ、①別の場所から移動した際に地盤の緩みを計算していなかったか、②台座下に埋納空間があってそこに落ち込みかけているのかどちらかであろう。いずれにしても、台座下の基壇は明確でないものの、断面の様子を見る限り当初から意図的に台座を分割していると思われる。こうしたケースはほかでもしばしば見かけるが、反復継続し塔下の空間に火葬骨などを落とし込むような埋納行為のため、隙間を開け閉めする便宜を図る目的で可動しうる分割式にしたと考えられる。基礎は上2段、側面は四方素面で、基礎の幅に対するは高さの比率は高いものではないが、台座の基礎受座と一体に見えるので、一見すると高いように錯覚してしまう。南側の右寄りに小さめの文字の刻銘が認められる。佐野知三郎氏は「嘉元三年己巳十二月廿□日/大願主沙弥□□□/阿闍梨道□/敬白」と判読されている(※1)。肉眼での観察でも嘉元3年(1305年)12月は何とか判読できる。塔身は四面とも月輪を線刻ではなく円形に彫り沈め、その中に大きく金剛界四仏の種子を薬研彫している。(方角が左に90度ずれている。)種子は力強くしっかりした筆である。笠は上6段下2段、各段はほぼ垂直に立ち上がり、丁寧な仕事がしてある。隅飾は二弧輪郭付きで輪郭内は素面。軒と区別し緩くカーブを描きながら少し外反する。隅飾は笠全体からみれば小さく低い。4つの隅飾のうち1つは先端が少し欠けている。笠上2段目と接着させカプスの位置はほぼ中央で1段目に相当する高さにあって先端は3段目の高さに至らない。笠上の段型は逓減が大きく全体に幅があって安定感がある。相輪は九輪の5輪目以上を欠損する。下請花は単弁のようで、九輪は単なる線刻式ではないが凹凸を強く刻み出されていない。ただし相輪が外の部分に比べ少し小さい気がするので、別物の可能性は否定できない。相輪を復元すれば8尺、台座を含めると9尺はあろうかという大型塔(※2)。反花座が特に優秀で、相輪を除けば全体として保存状態も良好、しかも紀年銘を有する点は貴重で、もっと注目されて然るべき名塔である。金龍院にはもう1基、優れた宝篋印塔がある。墓地の南端、フェンス際にあって南塔と呼んでおく。(北塔に比べ目立たないので見落とさないでいただきたい。かく言う小生は一度見落とし訪ね直している。06_4)北塔よりひとまわり小さい。半ば埋まった反花座は南西方向に向かって沈み込み、塔をまっすぐに保つために基礎との間にセメントを詰めて補修してあるが、その後も落ち込みが進行したのか隙間が空いてきている。基壇部分は確認できない。この反花座も立派で、一辺あたり4弁の複弁反花、傾斜を緩やかにして反花部分の面積を広くとり、間弁もしっかり根元まで表現され、隅が間弁になる大和系の特徴は北塔と同様だが、こちらは隅弁をちょうど宝塔の隅棟に稚児棟を設けたように二段重ね式にしている。08_3目立たない部分だが凝った意匠で珍しい。基礎は上2段の四方側面とも素面で、刻銘は確認できない。高さに比べ幅が勝って安定感がある。塔身には陰刻月輪内に雄渾なタッチで金剛界四仏の種子を薬研彫する。笠は上6段下2段、隅飾は2弧輪郭付き、輪郭内素面で4つとも大きな欠損なく残る。立ち上がりは垂直に近いが軒と区別し微妙な曲線を描いて外反する。笠上2段目と接着し3段目の高さに至る。北塔に比べ隅飾は通常の大きさである。笠全体に幅があって笠上段型の逓減が大きく安定感がある。相輪は失われ五輪塔の空風輪で間に合わせている。笠上までの高さは約116cm。元は反花座を含め7尺塔と思われる(※2)。花崗岩製。反花座の沈下が激しく放置すれば塔が倒壊するおそれがある。甲賀市屈指の優れた宝篋印塔のひとつであり、文化財指定の有無は知らないが、間に合わせのような応急措置ではなく、きちんとした保護措置が望まれる。(それにしても稀にみる優秀な反花座にセメントを塗ってしまうのはいかがなものかと思いますがねぇ。)造立時期は、北塔よりもやや基礎の幅に対する高さの割合が増し、隅飾や反花座が通例に近づいていることから、嘉元3年より少し遅れる頃、14世紀前半でも早い頃と推定するがいかがであろうか。

参考

※1 佐野知三郎 「近江の石造美術(二)」 『史迹と美術』 590号

※2 池内順一郎 『近江の石造遺品』(下) 271~278ページ

   滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』 158ページ


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