滋賀県 米原市上丹生 松尾寺層塔
国道21号線をJR東海道本線醒ヶ井駅前で南に曲がり、丹生川の清流沿いに山手に進み、右に折れて川を渡り険しい山道を徒歩で標高約400m余りの場所に位置する松尾寺まで登って行くルートは山裾からは1時間以上はかかる行程である。松尾寺は標高504mの松尾寺山山頂から南東に少し降った斜面に立地している。お寺の機能は山麓の里坊に移転しているため、現在この山上伽藍は無住となっているが、定期的に手入れされている様子がうかがえ案内看板もある。本尊は観音菩薩、寺伝では役小角開基、義淵僧正の弟子とされる宣教創建による霊仙寺7子院のひとつで、息長氏出身で唐に渡り彼の地で非業の最期をとげた霊仙三蔵修業の地といわれ、伊吹山の三修の高弟松尾童子が中興とされるなど、修験道系の山岳信仰との深い関わりを示す古いエピソードを伝えている。また「飛行観音」として航空関連の崇敬を集めているとのこと。標高は先に紹介した大吉寺跡に比べると低いが、人里離れた山深い雰囲気は共通する。往昔は子院50余を数え、本坊・子院をあわせて松尾寺という集落を形成していた。茶が特産であったというが明治時代に上丹生に合併した。急な石段を上がると正面に本堂跡の方形土壇がある広い平坦地付近が本坊の跡である。本堂は江戸初期、彦根藩の庇護のもと整備された寛永期の建築であったが惜しくも昭和56年1月、豪雪により倒壊、今も片隅に朽ちかけた当時の建築部材が集積してあるのが何とも痛ましい。本堂跡の向かって左には蔵が残り、その手前に鐘楼か塔の跡と思われる石積の方形壇がある。その奥、斜面裾の細長い平坦面に目指す石造層塔がある。ごつごつした岩盤が露呈した場所に直接基礎を据えた高さ約5mの九重塔である。逓減率が大きく、全体に安定感がある。花崗岩製。基礎は側面四面とも輪郭を巻いて格狭間を配し、側面のうち三面は、格狭間の左右に一対、宝瓶に挿した未開敷三茎蓮花の浮き彫りがある。山手の背面のみは宝瓶三茎蓮花はみられず格狭間の左右に刻銘がある。「願主法眼如意敬白(向かって右側)/文永七年(1270年)庚午八月日(向かって左側)」。各側面とも輪郭の幅は比較的狭く、格狭間は上辺がまっすぐ水平に近く肩はあまり下がらない。宝瓶三茎蓮花のためのスペースをとる必要性からか格狭間の側線が少し窮屈になって意匠表現上の苦心の跡がうかがえる。一方、刻銘のある面だけは格狭間の側線はスムーズで整った形状を示す。また、基礎上面には低い一段を設けて塔身受座を刻みだしているもあまり例の多くない珍しい手法といえる。初重軸部は蓮華座を線刻した上に舟形背光を彫り沈めて顕教系の四方仏坐像を厚肉彫りしている。彫りが深く、像容は体躯の均衡よく面相も優美で、この種の四方仏の中では最も優秀な範疇に入るだろう。笠の軒口の厚みはあるが隅増がなく反転も比較的緩いもので、屋だるみも目立たない。初重屋根と二層目軸部、二層目屋根と三層目軸部が一体彫成されるが、三層目屋根から六層目までは軸部と屋根がそれぞれ別石となる。さらに二層目軸部の四面中央に月輪内に五大四門の梵字「ア」、「アー」、「アン」、「アク」を陰刻し、三層目にも同様に「バ」、「バー」、「バン」、「バク」が見られる。川勝政太郎博士は五輪塔と同様にキャ・カ・ラ・バ・アの五大梵字の四門展開が六層目から二層目にわたる軸部にあったものが、後補した際に省略したものと推定されている。表面の観察からでは軸部のみ後補なのか笠も後補なのかは明らかでない。六層目屋根と七層目軸部以上は最上層を除き軸部と屋根が同体になっている。最上層笠の頂部には露盤を刻みだしている。 各笠裏に垂木型は見られない。相輪は先端宝珠に少し欠損があり、九輪の上で折れたものを接いである。おもしろいのは九輪の上、水煙か下請花あたる部分が立方体になって各側面には舟形背光形に彫りくぼめて半肉彫り四方仏坐像を配している点で他に例を知らない。 以上のようにこの松尾寺塔には通常の層塔に比べると個性的な構造と特殊な意匠表現が随所に見られる。まとめると、(1)格狭間の左右に配した基礎の宝瓶三茎蓮レリーフ、(2)基礎上面の軸部受座、(3)笠と軸部を一体整形した層と笠と軸部を別石とする層が混在している、(4)軸部に五大四門の種子を配する、(5)笠裏に垂木型がみられない、(6)相輪の九輪上にある四方仏を刻出した龕部、(7)各層の逓減率がやや大きいといったことがあげられる。これらは作風が定型化する前の創意工夫の過程における個性の発揮と考えて差し支えないものと考えられ、近江式装飾文様のあり方や近江の層塔を考えていくうえでこの松尾寺塔は欠くことのできない存在といえる。(1)について、川勝政太郎博士は、戦前に早くも初重軸部の本尊ないし四方仏への供花の意味合いがあることを指摘され、一般的には格狭間内に配する近江式装飾の蓮華文様のレリーフの初現的な意匠表現と推定されている。その後、格狭間内に三茎蓮花を持つ建長三年(1251年)銘の大吉寺跡宝塔(長浜市)や寛元4年(1246年)銘の安養寺跡層塔(近江八幡市)が世に知られるようになったため、松尾寺塔を近江式装飾の初現そのものとすることはできなくなっているが、早い段階のあり方やルーツを考えるうえで貴重なヒントを与えてくれる、そういう意味においては川勝説の根幹は今日もその意義を失ってはいない。また、(3)は軸部別石手法の消長を考える上からも注意すべき点である。このように見てくると松尾寺塔が近江の層塔を考えていくうえで示唆に富む特長を備えた興味深い事例であることがわかると思う。そして何よりも山深い寺跡の木陰に凛と佇む姿は見るものを惹きつける。いつまでも眺めていたい、立ち去り難い気分にさせてくれる、数多い近江の層塔中の白眉といえる。風化による表面の石肌荒れや細かい欠損はあるが総じて保存状態もよく、13世紀後半の紀年銘も貴重。後世に長く伝えていかなければならない優品。重要文化財指定。
なお、少し離れた岩盤上には14世紀中頃のものと思われる宝篋印塔の基礎があり、上に相輪を欠いた15世紀代に降るであろう小形宝篋印塔が載せてある。ほかにも小形の五輪塔の残欠や一石五輪塔が各所に散見される。
参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 247ページ
〃 新版『石造美術』 75ページ
〃 『近江 歴史と文化』 187~188ページ
平凡社『滋賀県の地名』 日本歴史地名体系25 882ページ
滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』 44~45ページ
写真右上:素晴らしい像容の四方仏、写真左中:基礎上面の軸部受座、写真左下:相輪の上部の龕、写真右中上:格狭間脇にある宝瓶三茎蓮花、写真右中下:文永七年の紀年銘が格狭間左側にある、写真右下:軸部の月輪内の梵字・・・どれもわかりにくいイマイチの写真ですいません。とにかく四方仏の面相が優美、つまりハンサムです。なお、直線距離にしておよそ1.5kmほど北西、三吉集落の南東の山裾にある八坂神社にも元亨三年(1323年)銘の九重層塔があります。あわせて見学されることをお薦めします。よく似た規模の層塔ですが、四方仏の出来映えにはずいぶん違いがあります、ハイ。