石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 大津市上田上桐生町 逆さ観音三尊磨崖仏

2013-04-30 15:13:09 | 滋賀県

滋賀県 大津市上田上桐生町 逆さ観音三尊磨崖仏
上田上(上から読んでも「かみたなかみ」下から読んでも「かみたなかみ」?)の上桐生地区、草津川を川沿いに進んでいくと、駐車場があり、付近は国有林を一般に公開した自然休養林(一丈野地区)のキャンプ場として、また金勝山ハイキングコースの入口として親しまれている。車を降りて案内標識に従って歩いていくと15分程で「逆さ観音」に着く。さらにそのまま行くと近江随一の立派な磨崖仏で有名な狛坂寺跡に至る。01_2
 渓流の右岸、橋や東屋が整備され立派な案内看板が設けられている。幅約5m、高さ約3m、奥行き約1.5mほどの花崗岩の岩塊に三尊石仏が刻まれている。天地を逆に転倒しているため、「逆さ観音」と呼ばれている。
元は背後の尾根の上にあったものが転落して今のような姿になったといわれている。全体に表面の風化摩滅が激しく、衣文や面相はほとんど確認できない。阿弥陀三尊とされているが印相や持物がはっきりしないので断定できないと考える。平坦な正面下端近くに沈線を引いて区画し、下端の沈線上に框を据え、その上に敷茄子状のものを挟んで蓮華座をレリーフし、その上に座す中尊は、台座下端から頭頂までの総高約148cm、膝下から頭頂までの像高は約100cm。頭頂に明瞭に肉髻があるので如来像である。框座の下端には反花があるように見える。02蓮華座というものの蓮弁は明確でなく裳懸座のように見える。半肉彫りで全体によくシェイプアップされた肉取り、肩幅があり頭部が大き過ぎずバランスのとれた姿は古調を感じさせる。右手は肩口に掲げ、左手は胸元にあるので、来迎印、施無畏与願印の可能性もあるが説法印のように見える。いかんせん手先が風化摩滅して確認できない。左右の脇侍は体を斜めにして中尊に寄り添う菩薩立像である。中尊からみて右の脇侍は総高約130cm。右手を腰の辺りにして、左手に蓮華のような持物を胸元に斜めに捧げているように見える。足元には小さめの二重になった蓮華座があるがはっきりしない。左脇侍は左半身を大きく欠損し、頭部から右肩・右手、胸部右半くらいまでしか残っていないが右手を胸元に捧げている。目を凝らすと目鼻立ちの整った優れた面相表現の痕跡が何とかうかがえる。
上部(現状では下部)にいくつか見られる小穴は懸造の屋根をさしかけた痕跡かもしれない。03
 造立時期は不詳とするしかないが、鎌倉時代初期とされている。古調を示すプロポーション、凝った台座の様式にとらわれない表現など、程近い狛坂磨崖仏に通じるところがある。
 なお、左脇侍の左側面は人為的に割られており、断面が新しく、ドリルのような機械を使って穿孔した痕跡が残っている。また、中尊の左肘付近のくぼみは矢穴を開けようとした鏨の痕のようである。こうした破壊の痕跡について、昭和49(1974)年4月25日発行の『民俗文化』127号に、地元古老の口伝として、興味深い話が載っている。明治時代、観音という場所に石仏があって、その台に良い石材が使ってあった。桐生に「鉄砲松」という無鉄砲な人物が石材業をしており、無謀にも石仏に性根()があれば起き上がる、性根が無いなら転がったままだ、と言って石仏の載っている台の石に発破をかけた。石仏には性根がなかったとみえて転がったまま起き上がらなかった。今では石仏を逆さ観音と言っている。発破をかけて採った石材はオランダ堰堤に使われた…というのである。伝承者として上桐生在住の明治32(1899)年生まれ(当時75歳)のY氏の実名が記載されているので、真偽はともかく、そういう言い伝えがあったことは間違いない。それにしてもずいぶん乱暴な話である。一般的には地震で尾根の上から転落したといわれているので、実際に尾根の上に登ってみたが、意外に尾根の稜線部分は非常に狭く馬の背部分は蟻の戸渡りのようで、あのような巨岩があったとはちょっと考えにくい。伝承のように発破までかけて石材を切り出したというのが本当ならば、その際にかなり地形が変ってしまったか、あるいは地滑りに遭っている可能性もある。付近には同様の岩塊や花崗岩の露頭はいくらでもあるのに、なぜあえて磨崖仏を破壊してまで石材を得る必要があっただろうか謎である。よほど石材として良質であったのだろうか。基底部下の石材を抜き取られて、不安定になった後に、地震等で転落した可能性もある。
 また、磨崖仏の西側にはかなり広い平坦地がある。寺院の跡かと考えたくなるが、明治の砂防工事の石切場だったというのであれば、ここに石切工事の作業場的なものがあったのかもしれない。

 駐車場からの道の途中にあるオランダ堰堤について触れておきたい。市指定史跡、日本の産業遺産300選、土木学会奨励土木遺産。01_3堤長約34m、高さ7m、基底部幅10.7m、天端幅7.9m~5.8m。0.55×0.33×1.2mの柱状の石材を20段、布積みに階段状する積み方は鎧積みと呼ばれる。柱状の石材の内側には裏込石を込め、中心部は赤土粘土と石灰のつき固めとしているという。下流側の平面形が、中央が薄く両袖部が厚いアーチ状になって中央に導水し、流水の勢いを階段部分で緩衝し、下流部の水叩部の洗掘を防止しているとされる。明治22年頃竣工(明治11年説も)、田邊義三郎設計で、所謂お雇い外国人で内務省土木局技術顧問であったオランダ人技術者ヨハニス・デ・レーケ(1842~1913)の指導助言のもと造られたとされている。120年を経てなお砂防施設として機能していることは驚きである。デ・レーケ02_3は、明治時代に活躍した港湾・河川改修や砂防・治山工事のスペシャリストで、日本砂防の父と称されている。明治24年には勅任官扱い(事務次官級)となっている。日本各地に彼の偉業を伝える土木事業の成果が今も残されている。このオランダ堰堤について、工事の経緯や時期を示す詳しい資料は残っていないそうで、実はデ・レーケの関与についてもよくわかっていないらしい。
田上地区の山は、元は良質の木材供給地として奈良時代以降、都や宮殿、大寺院の建築部材として盛んに木材が伐り出され、その後も薪木採取などが繰り返され、森林再生力の低い土壌もあいまって花崗岩と花崗岩が風化した山砂と赤土に覆われた地表面がむき出しになったはげ山となってしまったという。今も金勝山など一部で潅木が散在するような景観が広がっている。このため古くから水害や土砂災害に悩まされてきた。明治になって大阪湾をも含む淀川水系全体を睨んだ壮大な治水計画の一環として、デ・レーケを始めとするお雇い外国人の助言をもとに上流域の山林の涵養、砂防治山事業に取り組んだのだそうで、オランダ堰堤というのは、デ・レーケの故郷にちなんで名付けられた呼称とのことである。

 

参考:清水俊明『近江の石仏』

   田村 博「狛坂寺跡案内記」『民俗文化』第127号

どうも天地逆というのは観察しにくいですね。受ける印象が違ってしまいます。足場か脚立持参でないと正面からの撮影も難しい困った磨崖仏です。写真で見た印象よりずっと傾斜が急で壁面に取り付くこともできません。数年前、金勝寺側から狛坂寺跡に行った時、ちょっと遠そうだしついでに見ようかどうか悩んだ末に見送った経緯があります。田上から行く方が全然楽で結果的に見送ったのは正解でした。
磨崖仏の一部が部材として使われているかもしれない問題のオランダ堰堤の近くにはヨハニス・デ・レーケさんの胸像が建てられて完全に既成事実になっています。むろん何らかの関与があったのは疑いないでしょうが、確実な資料が残っていないというのにどんどん既成事実化が進むというのは、良い悪いは別にしても歴史が間違った方向に進む第一歩のように思えてしまいます。確かに防災意識や国際交流意識の醸成にデ・レーケさんは非常にキャッチーですが…。平安や鎌倉の昔ことを思えば明治期はまだつい最近のことです。その頃の事が既にわからなくなっているとすれば中世のことなど所詮わかろうはずもないとすべきかもしれません。既成事実化を急ぐよりもまずは明治の土木工事の歴史をキチンと究明することにエネルギーを費やすのが順序のような気もしますが…いや、小難しいことをつべこべ言うのはよしましょう、鬱蒼とした樹木が少ないということは逆に明るい雰囲気でいい感じです。とにかく里山の自然が豊かないいところですから、若葉の季節、テルペン物質を満喫できた一日でした、ハイ。


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