石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 近江八幡市池田本町 池福寺宝篋印塔

2008-12-03 01:03:39 | 宝篋印塔

滋賀県 近江八幡市池田本町 池福寺宝篋印塔

桐原小学校の西に境内を構える天台宗霊松山池福寺。山門をくぐると、手入れのいきとどいた緑豊かな境内、正面に見える二層屋根の本堂に向かう参道左手の生垣の途中に宝篋印塔がある。自然石を組んだ上にうまくバランスを考えてちょこんと載せてある感じだが、相輪先端を欠いて現高約156cmで元は6尺塔と推定される大きさである。01全体に荒叩きに仕上げ、表面の風化は進んでいる。基礎は上2段式、幅約60cm、高さ約47cm、側面高約39cm。基礎側面は南東側を除き輪郭を巻いて内に格狭間を配し、さらにその中に三茎蓮華のレリーフを刻みだしている。三茎蓮華は左右対称だが茎や葉が細く弱々しい感じ。宝瓶は表現されない。南東側のみ素面のままとしている。輪郭は左右束部分が葛部に比べるとやや広い。また、輪郭内の面積に比べ格狭間が相対的に小さく輪郭左右と格狭間の空間を広くとっている。輪郭の下端の地覆部分は彫りが明瞭でなく、基礎自体下端が不整形であることを考え合わせると田岡香逸氏の指摘のとおり、基礎下方を地中に埋める前提で省略されていた可能性が高い。基礎下端を埋める前提であったと仮定すれば、基礎の背の高さを考慮する場合に高さは少し割り引いて考える必要がある。格狭間の造形はお世辞にも整っているとはいえない。特に正面北東側面の格狭間は花頭部分のカプスが左右1個づつしかない。このように一見稚拙で小さめの格狭間には、湖南市岩坂の弘安8年(1285年)銘の最勝寺宝塔(2008年10月9日記事参照)や東近江市柏木町の正寿寺正応4年(1291年)銘宝篋印塔など古い紀年銘を持つ石塔基礎に類例があり、この点は注意しておかなければならない。さらに基礎のフォルムの特長として、基礎幅に対して段形が幅、高さともにかなり小さいことが上げられる。特に側面から初段までの幅が大きい。02 それだけ側面からの入りが大きいことを示す。基礎は素面の南東側が本来背面にくるべきで、現状で正面になっている北東側が左、現状の北西側が本来の正面と考えるべきであろう。塔身は幅、高さともに約26.5cm。表面の風化が目立ちハッキリ確認しづらいが南東側「ア」ないし「アー」、南西側「アン」、北西側「アク」の胎蔵界四仏と思われる種子を月輪を伴わず直接陰刻している。文字のタッチはあまり強くない。正面北東側のみは舟形背光型に彫りくぼめた中に如来坐像を半肉彫りしている。印相は定印と見られ阿弥陀と思われる。蓮華座は確認できない。笠は上6段下2段で軒幅約53cm、高さ約45cm。笠上に比べ笠下の段形がやや薄い。軒は厚さ約9cmと比較的厚く、一弧の隅飾は軒と区別しないでほぼ垂直に立ち上がる。隅飾には輪郭は見られず、各側面に月輪に囲まれた梵字「ア」を陰刻する。隅飾は笠上段形3段目とほぼ同じ高さでとりたてて高くはない。段形最上部6段目は南東側に少し欠損がある。相輪は九輪の6輪までを残しそれ以上は欠損している。伏鉢は異様に低く小さいので欠損部があるのかもしれない。少し動かして枘を見てみたところ枘と枘穴は合致しているのを確認したが、この点後考を俟つしかない。下請花は蓮弁が摩滅して複弁なの単弁なのか不詳。伏鉢とのくびれ部から側線にかけての曲線はスムーズで硬さはない。九輪部は凹凸がハッキリ刻まれ残存部を見る限り逓減はあまり感じられない。川勝政太郎博士は軒と区別せずほぼ垂直に立ち上がる一弧の隅飾、格狭間左右の広さ、荒叩きの作りなどの特長を総合して古式塔に通じるものとされ、永仁3年(1295年)銘の東近江市妙法寺薬師堂の宝篋印塔との近似性を指摘され、鎌倉中期末ごろの造立と推定されている。一方、田岡香逸氏は基礎の背の高さ、三茎蓮華の弱さ、隅飾の幅と高さの比や方形の塔身などから、「川勝博士が説かれたように、早期塔的な構造手法は全く認められない」として1320年ごろのものと推定されている。もとより銘は確認できず、先学の見解もこのように分かれるため小生のごとき若輩には何ともいえないところであるが、あえて述べさせてもらうと、報文にみる田岡香逸氏の観察の詳細さには敬服せざるをえない。そして、確かに各部の特長が必ずしも古式を示すものでなく、鎌倉中期(川勝博士は正応以前とされる)に遡る可能性があるという意味の「早期塔」を典型的に示すものではないという点において共感できる。しかし、古式な特長が全く認められないというのは少々乱暴に過ぎ、逆に鎌倉末期近い1320年ごろに持っていく根拠の方が弱いように思う。古くもっていく要素には弱いところがあるが、積極的に新しくする要素にも決定打に欠けるところがあるということだろう。そこで小生としては微妙なところではあるが古い要素をいちおう評価すべきと考える。川勝博士の記述は田岡氏が指摘するように十分ではないかもしれないが、結果として導き出された13世紀末ごろという年代に違和感は感じない。田岡氏の指摘どおり鎌倉中期にもっていくのは無理かと思うが、年代としては川勝説にほぼ近い、鎌倉後期初め、13世紀末から14世紀初頭頃といったところではないかと考えるがいかがであろうか。なお、境内にはこのほかにも層塔塔身や五輪塔残欠、箱仏などが見られる。

参考:川勝政太郎「近江宝篋印塔補遺 附装飾的系列補説」『史迹と美術』380号

   田岡香逸「近江蒲生郡の石造美術―竜王町・近江八幡市―」『民俗文化』109号